魏書卷四十二 列傳第三十 堯暄

堯暄

  • 堯暄、字は辟邪。上黨長子の人で、本名は鍾葵、後に暄の名を賜った。祖の僧頼は太祖が中山を平らげると趙郡の呂舎とともに真っ先に帰国した。暄は聡了で容貌美しく、千人軍将・東宮吏となり、高宗はその恭謹さを愛して中散に擢され、平原鎮将および長史の貪暴を検察するよう齊州に使わされ、事の推情診理はみな実を得た。太尉中給事を除せられ北部曹事を兼ね、後に南部に転じ、太和中、南部尚書に遷った。三長を始めて立てるにあたり暄は東道十三州使として戸籍を更比し、独車一乘・廐馬四匹を賜られた。蕭賾がその将陳顯達を派遣して辺を寇すると暄は使持節・仮中䕶軍・都督南征諸軍事・平陽公として軍を許昌に進めたが、陳顯逹が遁走したため暄は班師した。暄は前後の従征・出使の検察において三十余度、みな克己奉公の称あり、衣服二十具・綵絹十匹・紬絹千余叚・奴婢十口を賞賜され、平陽伯を賜爵した。百官の改置にあたり太僕卿を授けられ、車駕南征に際し安南将軍を加え大司農卿に転じ、太和十九年(495年)平城で卒した。高祖はこれを哀悼し安北将軍・相州刺史を贈り賻帛七百匹を贈った。初め暄が徐州に使いした際、州城の楼観が華盛に過ぎることを嫌い毀撤させたため、以後だんだん損なわれていったが、高祖が彭城に幸してこれを聞き「暄はなお追斬すべきだ」と言った。

暄の長子・洪

  • 洪、鎮北府録事參軍を襲爵した。

洪の子・桀

  • 桀、字は永壽。元象中に開府儀同三司・樂城縣開國公となった。

洪の弟・遵

  • 遵、伏波将軍・河州冠軍府長史・臨洮太守となり卒し、龍驤将軍を贈られ諡を思とした。

遵の弟・榮

  • 榮、員外散騎侍郎となった。

榮の子・雄

  • 雄、字は休武。元象中に儀同三司・豫州刺史・城平縣開國公となった。

雄の弟・奮

  • 奮、字は彦舉。興和中に驃騎将軍・潁州刺史となった。

奮の弟・難宗

  • 難宗、武定中に征西将軍・南岐州刺史・征羌縣開國伯となった。

呂舎

  • 呂舎はすでに帰国した後、京師に随行し田宅を賜与された。

呂舎の子・方生

  • 方生、機識明辯で主書郎で卒し建武将軍・定州刺史・高邑子を贈られ諡を敬とした。

方生の子・受恩

  • 受恩、侍御中散・典宜官曹となり累遷して外都曹令に転じ、北部給事・秦州刺史となり官で卒した。

史論

  • 薛辯・㓂讚は身を帰し道あるを歸し、ともに欵效をもって嘉せられた。㓂讚は敦煌を移さぬ馭遠の策を得、務は武夫の鄙詐に染まらず、貢がれた牀・象牙の飾を棄てて用いなかったのは人主の盛徳である。堯暄は聡察で奉公に努め名位を致し、礼を加えられ存殁ともに余栄があった。