魏書卷三十八 列傳第二十六 韓延之
韓延之
韓延之、字は顕宗、南陽赭陽の人、魏の司徒韓暨の後裔。司馬徳宗の平西府録事参軍であったが、劉裕の司馬休之討伐の軍が江陵に至る前に密かに招降の書を送ったところ、延之は「親しく戎馬を率いて西畿に至った理由が分からず境内の士庶は皆怪しんでいる、司馬平西(休之)は国体・忠貞の人で古人に求めるべき徳がある、足下(劉裕)は人を欺くことで天地に容れられまい、君を伐ち利を以て誘う所業はまさに本性の表れだ、天下の乱世であれば臧洪と共に地下に遊ぶまでだ」と痛烈に拒絶する返書を送った。裕はこれを読んで嘆息し諸佐に示し「人に仕えるとはかくあるべきだ」と評したという。裕の父の名は翹、字は顕宗であったため、延之は自らの字を顕宗のままとし、子には「翹」と名付けて劉裕への不臣を示したという。
その後、姚興の下に奔り、泰常2年(417年)司馬文思らと共に魏に帰国、虎牢鎮将・魯陽侯に叙せられた。かつて柏谷塢を訪れ魯宗之の墓に詣でた際、河洛の地を三代の都であり必ずここに治める者が現れると子孫に語り、死後は北の代に葬らず柏谷塢に葬るよう遺言、その通りに葬られた。延之の死後50余年、高祖(孝文帝)が洛陽に遷都し、その孫は墓の北の柏谷塢に居住することとなった。延之の前妻羅氏の子・韓措は父と共に入国し、後妻の淮南王女との間の子・韓道仁を推して嫡子とし爵を襲がせ、殿中尚書・西平公に至った。