魏書卷三十六 列傳第二十四 李順

李順、字は徳正、趙郡平棘の人(?–442年)。北魏太宗・世祖朝に仕えた文官・外交官で、凉州の沮渠蒙遜・牧犍への使者として才腕を発揮したが、政敵崔浩との確執から讒言を受け刑死した。子の李敷も高官に進んだが誅殺され、順の位号も一時庶人に落とされたが、のち高祖により名誉回復された。

年表(6件)

出自と若年

李順、字は徳正、趙郡平棘の人。父の李系は慕容垂に散騎侍郎・東武城令として仕え治績があり、太祖(道武帝)が中原を平定した後は平棘令となり、老いて没した後、寧朔将軍・趙郡太守・平棘男を贈られた。順は経史に博渉し才策を以て世に知られ、神瑞年間に中書博士、のち中書侍郎に転じ、始光初年の蠕蠕征討に籌略の功があり後軍将軍・平棘子を賜り、奮威将軍を加えられた。

崔浩との確執と対凉州外交

  • 世祖が赫連昌討伐にあたり順を前駆の総攬にと崔浩に諮った際、浩は「順の才は十分だが、姻戚として熟知する順は果断に過ぎ去就に難があり、専任すべきでない」と答え、世祖はこれを見送った。浩の弟は順の妹を娶り、浩の甥は順の娘を娶る姻戚でありながら、浩は順を軽んじ、順もこれに服さず、互いに猜疑して浩が順を讒するに至った。
  • 統万攻略で順は功績大きく左軍将軍、のち赫連定討伐で前将軍として督戦、統万克服後の恩賞(珍宝雑物)を辞して書数千巻のみを受け、京師で給事黄門侍郎・奴婢十五戸・帛千匹を賜った。さらに赫連定討伐で三秦平定後、散騎常侍・侯爵・征虜将軍を経て四部尚書に至った。
  • 沮渠蒙遜(凉州)の内附に際し、崔浩の推薦で順が使者に立てられ、太常として蒙遜を太傅・凉王に策拝した。使者往還の功で使持節都督秦雍梁益四州諸軍事・寧西将軍・開府長安鎮都大将・高平公に進み、後に四部尚書・散騎常侍に還任した。
  • 延和初年の再使では、蒙遜が老病を理由に拝謁を渋ったため、順は厳しく礼を正させ、蒙遜が箕坐して起立しない無礼に怒って退出しようとすると、蒙遜側は詔旨(不拝の詔)の有無を持ち出したが、順は斉桓公が周王の胙を受けた際にも臣礼を守った故事を引いて諫め、蒙遜はついに拝伏の礼を尽くした。両者は魏の武威と徳治、蒙遜側の実情(境の危機)などを論じ合った。
  • 帰還後、世祖への報告で順は蒙遜の政治力(河右三十年の統治手腕、荒服の懐柔)を評価しつつ「無礼不敬にして久しく福禄を保った者はいない」と滅亡の予兆を予言し、後継の牧犍についても「器量は父に及ばぬが、聖明の資質を継ぐには足る」と評した。世祖は「三、五年の内に事を図る」として一旦停止した。
  • 蒙遜死去の報が入ると世祖は順の予言的中を称え、絹千匹・厩馬一乗を賜い安西将軍に進号したが、崔浩は順の凉州外交での不正(蒙遜からの金宝収受による罪の隠蔽)を疑い、世祖に密告した。世祖は当初信じなかった。
  • 太延3年(437年)、順が再び凉州に赴いた際、世祖は凉州討伐の可否を問い、順は「民力の疲弊なお癒えず、他年を待つべし」と答え世祖はこれに従った。太延5年(439年)の凉州征討議論では、順は水草の乏しさを理由に反対し崔浩と朝廷で論争、世祖は浩の意見を採用して出征、姑臧に至ると水草が豊かで浩の正しさが証明され、世祖はこれを恨みに思った。
  • また蒙遜の元にいた西域沙門曇無讖の送還を命じられた際、順は蒙遜から金を受けて曇無讖の殺害を黙認したとされ、後にこれも世祖の嫌疑を招いた。凉州平定後、順が群臣の爵位差次の任にあたり不公正な受納を行ったことを凉州人徐桀が告発し、崔浩がさらに「順は牧犍父子から重賄を受け、水草なしと偽って国事を誤った」と讒言、世祖は激怒し、真君3年(442年)、順は城西で刑死した。
  • 順の死後数年、従弟の李孝伯が世祖に重用されたが、崔浩誅殺の際、世祖は孝伯に「汝の従兄は国を誤ったが、これほどの罰に至ったのは浩の讒毀のため」と語ったという。皇興初年(467年頃)、順の子敷らが顕貴となり、高祖(孝文帝)は順に侍中・鎮西大将軍・太尉公・高平王を追贈し、諡は宣王とした。妻の邢氏は孝妃と称された。順には4子があった。

長子・李敷とその一族

李敷、字は景文。真君2年(441年)に中書に入り忠謹をもって東宮に侍り、中散として李訢・盧遐・度世らと共に機密に参与した。謙恭で文学を好み、高宗(文成帝)の寵遇を得て秘書下大夫、南部尚書、中書監等を歴任、高平公を襲爵した。劉彧配下の徐州刺史薛安都・司州刺史常珍奇の帰順が真偽不明として朝議が渋る中、敷は独り帰順の必然を説いて衆議をまとめ、援軍派遣に尽力した。敷は一族十余人が朝に仕えるほど栄えたが、弟の李奕が文明太后の寵を得たことから李訢に二十余条の罪を訴えられ、顕祖(献文帝)の怒りを買い、皇興4年(470年)冬に敷兄弟は誅殺され、順の位号は庶人に落とされた。敷の従弟李顕徳・妹婿の広平宋叔珍らも連座して処刑された。敷兄弟は孝義に篤く礼法を守り北州に称えられていたが、この禍で人々に惜しまれた。

敷の長子伯和・次子仲良は父と共に死んだ。伯和は逃走したが後に捕らえられ殺され、その庶子孝祖は幼くして匿われ、のち敷の妻崔氏が宮から出て養育し、平涼太守に至った。

敷の弟・李式(字景則)は学識で知られ散騎常侍・平東将軍・西兖州刺史・濮陽侯を歴任したが、権要にあることを危惧して津吏に使者の到来を必ず報告させていたところ、使者が虚偽の申告で渡河し捕らえられ、兄と共に死んだ。

式の子・李憲(字仲軌)は清粋な人柄で学問を好み、太和初年に爵を襲い(伯に降格)、秘書中散として高祖に賞され、散騎侍郎として蕭衍の使者蕭琛・范雲の応対を務めた。母の老いを理由に帰養を願い出て趙郡太守となり、州里の風儀を正した治績で高く評価され、驍騎将軍・尚書左丞・司徒左長史・河南尹などを歴任、永平年間(508年頃)に兖州刺史となったが高肇への党附で除名。孝昌初年(525年)、元法僧の徐州反乱に際し憲は使持節・鎮東将軍・徐州都督として討伐にあたり、蕭衍の豫章王綜が彭城に拠った際も対応、平定後に征東将軍・揚州刺史・淮南大都督となった。孝昌2年(526年)、蕭衍の元樹・胡龍牙・夏侯亶らの寿陽来寇に対し、憲は子の李長鈞に迎撃させたが敗れ長鈞は捕らえられ、憲は城を明け渡して降り、還国を求めて許された。帰国後は廷尉に付されたが、孝昌3年(527年)秋、娘婿の安楽王元鑒が相州で反乱を起こしたことから、霊太后は憲の関与を疑い死を賜った。時に58歳。永熙年間(532年頃)に使持節・侍中・都督定冀相殷四州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・尚書令・定州刺史を追贈され、諡は文静。

憲の子・李希遠(字景沖)は早世し、子の李祖悛が爵を襲ったが北斉受禅で例により降格された。希遠の兄李長鈞は興和年間(539年頃)梁州驃騎府長史。

希遠の第二弟・李希宗(字景玄)は憲の兄性の養子となり、風雅な人柄で学識に富み、太尉参軍事から通直散騎常侍・東南道行台の右丞などを歴任、齊献武王(高歓)の大行台郎中、中軍大将軍・金紫光禄大夫に至り、獻武王の中外府長史となった。齊王(高歓)に次女を納れ人望を得て上党太守に出たが、興和2年(540年)4月、任地で疾により没した、享年44。使持節・都督定冀滄瀛殷五州諸軍事・驃騎大将軍・司空公・殷州刺史を追贈され、諡は文簡。長子の李祖昇は武定末(550年頃)太子洗馬。

希宗の弟・李希仁(字景山)は武定末、国子祭酒・兼給事黄門侍郎。

希仁の弟・李騫(字希義)は経史・文藻に優れ、14歳で国子学生として聡達を知られ、大将軍府法曹参軍・太宰府主簿・中散大夫・中書舎人・通直散騎常侍を歴任した。かつて「釈情賦」を著し、官界にあることの束縛と隠棲への憧れ、天命による国家再興への信頼、乱世を経て孝荘帝の代に再び出仕するに至った来歴、田園の閑居への望みと現実の宦途との葛藤を、多くの故事典拠(婁敬・許由・巣父・老子の知足の教えなど)を織り交ぜて綴った長編の賦であり、末尾には旧友への懐旧と余生を静かに送りたいとの願いが述べられている。騫はのち殷州大中正・鎮南将軍・尚書左丞、蕭衍への使者を務めたが事に坐して免官(無実とされた)。友人の盧元明・魏収に贈った詩も伝わる。後に太府少卿・征南将軍・給事黄門侍郎となり晋陽で没した。詩賦碑誄の集録があり、本官・太常・殷州刺史を追贈され、北斉受禅の際に使持節・侍中・都督殷滄二州諸軍事・車騎大将軍・儀同三司・殷州刺史を重ねて贈られ、諡は文恵。

騫の弟・李希礼は武定末、通直散騎常侍。希遠の庶兄・李剣は興和年間、梁州驃騎府長史。

式の弟・李奕(字景世)は容貌才芸に優れ早くに顕職を歴任、散騎常侍・宿衛監・都官尚書・安平侯となり、兄敷と共に誅殺された。太和初年、文明太后は敷兄弟を追念し李訢を誅し憲らの家を存問して布帛を賜った。

奕の異母弟・李冏(字道度)は若くして中散となり、逃避して難を免れた。太和年間、下大夫・南部給事、龍驤将軍・南豫州刺史、冠軍将軍・光禄大夫・度支尚書を歴任。太和21年(497年)、高祖の長安行幸に際し咸陽への遷都を勧めたが、高祖は東への都(洛陽)を選んだ経緯を後に笑って問い、冏は前漢の婁敬の献策と自らの献策の状況の違い(時勢の相違)を説明し、高祖は大いに喜んだ。同年冏は没し、銭二十万・布百匹等を賜った。冏は剛直で高祖にも直言し百官に憚られたが、優遇され尚書右僕射を兼ねることが多かった。学識は諸兄に及ばぬが公正剛毅の実務能力に優れた。

冏の子・李祐(字長禧)は兄弟に篤く、給事中・尚書祠部郎・相州撫軍府長史・司空従事中郎・博陵太守を歴任し清廉で知られた。祐の弟・李太(字季寧)は書伝に通じ太尉行軍員外郎。

順の弟・李修基は陳留太守で没し、子の李探幽、その甥の李洪鸞は河間太守、洪鸞の孫の李悕傑は楽陵太守となったが武定中(543年頃)貪汚により賜死。

修基の末弟・李惲(字善祖、小字薬囊)は若くして高名を得て中書侍郎となり、世祖の凉州征討に従軍し戦没、人々に惜しまれた。順は従兄の李霊・従弟の李孝伯と共に学識・器量で知られ、一族の名声を高めた(高允「高士頌」参照)。

李霊の系統

李霊は族叔の李詵、族弟の李熙らと共に徴用された。李詵(字令孫)は京兆太守。詵の後嗣は闕文。詵の子・李秀林(小字榼)は剛直な性格で太和年間、中書博士から頓丘相となり豪族に畏れられ、博陵郡の太守として抑強扶弱の政を行ったが母の喪で去職、太尉諮議参軍・司徒司馬・冠軍将軍・定州大中正・太中大夫を歴任し正光年間(522年頃)63歳で没し、左将軍・斉州刺史を追贈された。

秀林の子・李裔(字徽伯、秀林の兄鳳林の養子)は汝南王元悦の常侍から定州別駕、定州鎮軍長史・輔国将軍・博陵太守を経て、杜洛周の乱で城が陥落し洛周に仕えたが(洛周の乱世では市令・駅帥も王を称するほど無秩序で、裔は「定州王」と呼ばれた)、洛周滅亡後は葛栄に仕え、爾朱栄が葛栄を破った際に高敖曹・薛修義・李無為らと共に捕らえられたが後に釈放された。普泰初年(531年)持節・散騎常侍・安北将軍・兼給事黄門侍郎・慰労山東大使、永熙年間(532年頃)鎮東将軍・金紫光禄大夫、斉献武王の大丞相諮議参軍となり、天平初年(534年)定策の功で固安県開国伯(食邑400戸)に封ぜられ征東将軍を加えられた。鄴遷都後は大行台右丞として洛陽で宮殿修築を監督、使持節大将軍・陝州刺史となったが、天平4年(537年)8月、宇文黒獺(宇文泰)の陝州攻略で捕らえられ殺害された、享年50。使持節・都督定冀瀛殷四州諸軍事・驃騎大将軍・尚書令・司徒公・定州刺史を追贈された。子の李直が爵を襲ったが北斉受禅で降格。

裔の弟・李景義は大司馬諮議参軍・殷州大中正、その弟・李伯穆は武定末、合州刺史。

秀林の従弟・李煥(字仲文、小字醜瓌)は才幹があり酈道元と共に李彪に知られ、給事中から治書侍御史・恒州刺史を歴任、穆泰の代都謀反の際は任城王元澄と共に討伐し宣諭、司空従事中郎、蕭宝巻の豫州刺史裴叔業の寿春帰附の際は軍司として楊大眼・奚康生らと共に接収にあたり容城伯に封ぜられた。梁州刺史として武興の氐楊集起の反乱、秦州民呂茍児の反乱を平定し、氐王楊定進を密かに謀殺、享年44で没し、征虜将軍・幽州刺史を追贈され、諡は昭。子の李密は武定中、襄州刺史。

秀林の族子・李肅(字彦邕)は清河王元懌の郎中令から洛陽令・歩兵校尉・員外常侍を歴任、侍中元暉に諂い、のち左道(呪術)で侍中穆紹に取り入り、延昌4年(515年)黄門郎・光禄大夫となったが、酒狂の性で霊太后の宴席にて太傅清河王懌を侮辱し弾劾され、章武内史に左遷、右将軍・夏州刺史で没し、左将軍・斉州刺史を追贈された。

肅の従弟・李曒(字景林)は奉朝請・太学博士・司空主簿から左軍将軍、元乂の弟羅(青州刺史)の平東府長史、廷尉少卿・殷州大中正を歴任、孝昌2年(526年)冬57歳で没し、東平将軍・斉州刺史を追贈、諡は宣。

曒の従弟・李仲琁は定雍二州長史・太尉諮議・中散大夫・東郡汲郡二郡太守・司徒左長史・弘農太守として牛姓の豪族の害を威恵で鎮め、衛将軍・金紫光禄大夫・北雍州刺史、車騎将軍・左光禄大夫を経て天平初年(534年)鄴遷都の営構将作を務め衛大将軍、車騎大将軍・兖州刺史として孔子廟の修復を行い、将作大匠に還り享年66で没し、驃騎大将軍・儀同三司・青州刺史を追贈された。

李詵の従子・李善は孝静帝の諱に触れる名のため趙郡太守と記され、子の李顕進は州主簿。顕進の子・李映(字輝道)は南安王国常侍・光州征虜府主簿・相州治中・寧朔将軍・歩兵校尉を歴任、孝昌3年(527年)冬42歳で没し、天平中(534年頃)通直散騎常侍・輔国将軍・殷州刺史を追贈。

映の弟・李育(字仲遠)は奉朝請から揚烈将軍・奉車都尉・都督相州防城別将として葛栄討伐の功で趙郡公を賜り、征東将軍・金紫光禄大夫、天平4年(537年)夏57歳で没し、驃騎大将軍・都官尚書・定州刺史を追贈、諡は貞。

顕進の弟・李恃顕は左中郎将で没し、中塁将軍・安州刺史を追贈された。恃顕は京兆王元愉の妾楊氏を養女とし(愉の反乱に連座しかけたが逃れた)、その子李道舒は愉の逆謀に連座した。恃顕の弟・李曄(字季顕)は司徒行参軍から済州輔国府長史、尚書中兵郎・冠軍中散大夫を歴任、正光2年(521年)南荊州刺史桓叔興の蕭衍への叛服に際し尚書左丞・行台として討伐にあたり谷陂を陥落させ、洛州刺史となったが赴任前に没し、左将軍・斉州刺史を追贈された。

曄の族弟・李孝怡(字悦宗)は中書学生から相州高陽王雍主簿、広陵王羽掾、新蔡太守、粛宝夤の長史として中山王英の蕭衍軍撃破(梁城)に従軍、朔州安北府長史・相州鎮北府長史・冠軍将軍・魏郡太守を経て、中山王元熙の鄴での挙兵に際し柳元章・游荊之らと共に元熙を捕らえ昌楽伯に叙されたが、霊太后の反正により義党として除名。安楽王元鑒の鄴鎮の際に別将となり、永安初年(528年)左将軍・太中大夫、葛栄討伐の功で趙郡公、撫軍将軍・光禄大夫、永安3年(530年)殷州事を代行、驃騎大将軍・左光禄大夫となり武定6年(548年)80歳で没した。子の李思道は儀同開府中兵参軍・武城県公。

李熙の系統

李熙は神䴥年間(428年頃)高允らと共に徴され中書博士から侍郎に転じ、沮渠氏への使者の功で元氏子に叙爵、中塁将軍を加えられ没し、鎮東将軍・豫州刺史を追贈、諡は荘。子の李季王は爵を襲い没し青州刺史・諡貞を贈られ、その子李遺元は冀州趙郡王幹の東閤祭酒から尚書左民郎中、京兆王元愉の功曹参軍として愉の反乱に連座しかけて逃竄したが赦免され、兖州平東府長史、中堅将軍・殷州征北将軍長史を経て63歳で没し、征北将軍・定州刺史を追贈された。子の李恃寧は父の事件に坐して刑を受け武定末に中尹となり、弟の李子寧が爵を襲い北斉受禅で降格。

熙の族孫・李蘭和は右軍将軍から平陽・渤海二郡太守、弟の李蘭集は平昌太守。

熙の族孫・李同軌は体格魁偉で諸経に通じ、仏典・医術も好み、22歳で秀才に挙げられ奉朝請から国子助教・著作郎・国子博士・征虜将軍を歴任、永熙2年(533年)出帝の平等寺行幸で講説の論難を担い称賛された。永熙3年(534年)春の釈菜の儀では祭酒劉廞の孝経講義、黄門李郁の礼記講義などに並んで諸儒に招かれ論議に優れたが講経の機を得られなかったことを慨嘆した。太平中に中書侍郎、興和年間(539年頃)通直散騎常侍として蕭衍への使者となり、蕭衍が同泰寺・愛敬寺で名僧を集めて涅槃経・大品経を講じた際、同軌も加わり論難、道俗共に称賛した。盧景裕の没後は斉献武王が同軌を招いて諸公子を教育させ、日々講説に努め、武定4年(546年)夏47歳で没した。人々に惜しまれ、驃騎大将軍・瀛州刺史を追贈、諡は康。

同軌の兄・李義深は武定中、斉州刺史。同軌の弟・李幼挙は安徳太守であったが武定中、在郡の貪汚により棄市。幼挙の弟・李之良は幹用ありて前将軍・尚書金部郎で没し、その弟の李稚廉は武定末、并州儀同開府長史。

史論

史臣曰く、李順は器量・才識ともに当代の推重を受け、その謀は中国の国威を伸ばし外蕃を圧した。世祖はこれに心を寄せたが、崔浩に側目された末に不遇の死を遂げた。子の李敷・李式兄弟は位望共に高く、孫の李憲も風度恢雅で朝列に重んじられたが、いずれも非業の死に遭ったのは天命のなせるわざであろうか。しかしこの盛徳をもって一族が広く栄え、人としての地位が極めて盛んであったことは、李氏がなお名族の伝統を新たに保ち続けたことを示すものである。