魏書卷三十五 列傳第二十三 崔浩
崔浩、字は伯淵、清河の人(?–450年)。北魏の太祖・太宗・世祖三代に仕えた文官で、天文占験・軍事献策に長け、赫連昌討伐や蠕蠕討伐などの軍略でしばしば的中を重ねて重用された。国史編纂の総裁も務めたが、国記事件により真君11年に一族・姻戚もろとも誅殺された。
年表(9件)
- 頃(天興年間)398年給事秘書となり、のち著作郎に転じ太祖に重用される
- (神瑞2年)415年後宮の兎の怪異を吉兆と占い、姚興の献女で的中する
- (泰常元年)416年劉裕の関中攻略への対応を献策するも用いられず
- (泰常2年)417年劉裕と慕容垂の器量を論じ、劉裕が優ると評す
- (泰常3年)418年彗星の異変を東晋滅亡・劉裕簒奪の予兆と占う
- (泰常5年)420年劉裕が東晋の主を廃して自立し、浩の彗星占の的中が証明される
- (神䴥2年)429年途絶えていた『国書』30巻の撰録を完成させる
- (神䴥2年)429年蠕蠕討伐に独り賛成して反対派を論破し、大勝に導く
- (真君11年)6月450年国史事件により誅殺され、清河崔氏と姻戚一族が族滅される
出自と若年
崔浩、字は伯淵、清河の人。白馬公崔玄伯の長子。若くして学問を好み、経史・玄象陰陽百家の言に通じ、当時の人々もその博識に及ばなかった。弱冠で通直郎となり、天興年間(398年頃)に給事秘書、のち著作郎に転じ、太祖(道武帝)に重用された。太祖晩年は宮中の粛清が厳しく側近も咎を得て逃避する者が多かったが、浩は恭勤を怠らず、太祖はその実直さを知り御粥を賜るなどして厚遇した。
太宗(明元帝)期の信任と天文占験
- 太宗の初め、博士祭酒を拝し武城子に叙爵、太宗に経書を教授した。
- 太宗は陰陽術数を好み、浩の易・洪範五行の説を用いて吉凶を占わせ、天文を考定させた。浩の判断はしばしば的中し、軍国の大謀に深く関わった。
- 後宮に兎が出現する怪異があった際、浩は隣国からの献女の吉兆と解釈し、翌年(神瑞2年、415年)姚興が女を献じて的中した。
- 神瑞2年秋、穀物が不作となり、太史令王亮・蘇坦らが讖書を根拠に鄴への遷都を勧めたのに対し、周澹と浩は反対し、窮民を山東三州に分けて就食させる策を献じた。太宗はこれに従い、翌年大豊作となった。
- 姚興死去前年、熒惑(火星)が匏瓜星の中で忽然と消える異変があり、太宗が碩儒十数人に諮問した際、浩は『春秋左氏伝』を引き、庚午・辛未の二日のうちに天が曇る際に消えたと推し、秦(姚興の咸陽)への凶兆と断じた。他の者は嘲笑したが、80余日後に熒惑は東井に現れ、秦中は大旱となり童謡が乱れ、翌年姚興が死去、二子の内争を経て国が滅び、皆が浩の慧眼に服した。
- 泰常元年(416年)、劉裕が姚泓討伐のため水路の通過を求めた際、朝廷の大方は函谷関を封鎖し河上流を断って劉裕の西進を阻むべきと論じたが、浩は反対した。劉裕の目的は関中占領にあり、水路を封じれば裕は必ず北上して魏の東部を侵すと予測、逆に水路を貸して裕を西へ入らせ、その後に東帰の道を断てば漁夫の利を得られると説いた(「卞荘刺虎」の策)。太宗は群議に従い長孫嵩を派遣したが畔城で劉裕の将朱超石に敗れ、太宗は浩の策を用いなかったことを悔いた。
- 泰常2年(417年)、劉義隆配下の斉郡太守王懿の降伏・献策を機に、太宗が浩に劉裕の関中攻略の成否を問うと、浩は姚泓の弱体と劉裕の精鋭を根拠に必勝と断じた。さらに劉裕と慕容垂の器量を比較させると、浩は「慕容垂は貴族の生まれで人が自然に集まったに過ぎないが、劉裕は寒微の出から桓玄を滅ぼし慕容超・盧循を破って晋の実権を握った、劉裕の方が優る」と論じ、秦地は風俗が異なり劉裕も長く保てないと予測した。太宗が今すぐ彭城・寿春を襲えば劉裕を制せるかと問うと、浩は魏の現有兵力・将帥では時期尚早と諫めた。
- 浩はさらに当代人物論を述べ、王猛は苻堅の管仲、慕容元恭(垂)は慕容暐の霍光、劉裕は司馬徳宗(東晋)の曹操に当たると評した。太祖(道武帝)を問われては「太祖の功業は羲農に並ぶもので窺い難い」と答え、赫連勃勃(屈丐)については「国を滅ぼされ孤立し、姚氏に恩を受けながら恩を忘れ、隣国に党を結ばず徳もない小人であり、いずれ滅びるのみ」と評した。太宗は大いに喜び、深夜まで語り合い、御縹醪酒・水精戎鹽を賜った。
- 泰常3年(418年)、彗星が天津から入り太微を経て北斗を貫き、天棓を犯して80余日で漢の分野で消えるという異変があり、太宗が諸儒術士に凶兆の在所を問うたところ、皆が浩に答えさせた。浩は『漢書』の王莽簒位前の彗星と同様の現象であるとし、東晋は主弱く臣強く、桓玄の簒奪・劉裕の専権を経ており、彗孛は東晋滅亡・劉裕簒奪の予兆であると断じた。太宗はこれを深く信じ、泰常5年(420年)劉裕は果たして東晋の主司馬徳文を廃して自立、南鎮が改元・赦書を報じた際、太宗は浩に「昨年の彗星占が的中した」と称賛した。
- 浩の父が篤疾のとき、浩は爪髪を剪り庭で北斗に祈って身代わりを願い、叩頭出血しても一年余り止めず、家人にも知られなかった。父の死後は喪に礼を尽くし、時人に称えられ、白馬公を襲爵した。朝廷の礼儀・優詔・軍国の書記はすべて浩が関わった。浩は雑説を能くしたが文章を長く作ることはなく、制度・科律・経術に心を留め、家祭法・五宗蒸嘗の礼の次第を著すなど義理明晰であった。老荘の書を好まず、数十行読むと「これは矯誣の説で人情に合わず、老子の作ではあるまい」と捨てたという。
太子監国と儲君建言
- 太宗がしばしば微疾を患い怪異が続いたため、中貴人を通じて浩に後事を密問した。浩は「陛下はなお盛年、天道は遥遠で消長がある。宋の景公が徳を修めて熒惑が退いた故事のように、憂いを払い神を養われよ」と答えつつ、早期の東宮建立を進言した。長皇子拓跋燾(のちの世祖太武帝)を儲君とすべきこと、立子は長を以て礼の大経とすることを説いた。
- 太宗はこれを納れ、浩に策を奉じて宗廟に告げさせ、世祖(拓跋燾)を国副主として正殿に居らせ朝を臨ませた。司徒長孫嵩・山陽公奚斤・北新公安同を左輔とし、浩は太尉穆観・散騎常侍丘堆と共に右弼となり、百官の政務を総覧させた。太宗はこれを陰から観察して大いに喜び、六人の輔佐(長孫嵩・奚斤・安同・穆観・崔浩・丘堆)それぞれの長所を評した。
劉裕死後の南征論議と奚斤の南征
- 劉裕死去の報が入ると、太宗は洛陽・虎牢・滑台の攻略を欲したが、浩は服喪中の敵を討つのは義に反するとして、弔祭を送り恩義を示すことで自然と天下が靡くと諫めた。太宗は聞かず親征を決し、浩は「二子の内争を待つべし」と固執したが容れられず、奚斤を南伐させた。
- 南伐に際し先に城を攻めるか地を略するかの議論で、奚斤・公孫表は先に滑台攻略を主張したが、浩は「南人は守城に長け、力攻めは危険」として先に淮水まで地を略し守宰を置いて滑台・虎牢を孤立させる策を説いた。結局滑台攻めが長引き、太宗自ら南巡し浩を相州刺史・左光禄大夫として随軍の謀主とした。
五等制論議と寇謙之との交流
太宗の帰途、浩は同僚と五等・郡県制の得失を論じ、秦始皇・漢武帝の失政を考え、その識見は伏せられていた。天師寇謙之は浩の古今治乱の論を聞いて夜を徹して敬服し、浩に「王者治典」の撰述を依頼、浩は二十余篇を著し、五等制の復活を大旨とした。
世祖(太武帝)即位後の重用
- 世祖即位当初、浩は左右の忌みにより一時外に出されたが、疑議あるごとに召問された。浩は容姿優雅で自ら張良になぞらえ、帰第後は服食養性の術を修め、寇謙之に師事した。
- 始光年間、東郡公に進爵し太常卿を拝す。赫連昌討伐の議で群臣は難色を示したが、浩は天象(熒惑の羽林占拠、五星の東方併出)を根拠に討伐を主張し、世祖は奚斤らに蒲坂を攻めさせつつ自ら親征、大勝した。世祖再征の際、風雨と共に敵が迫った戦況で、宦者趙倪は撤退を進言したが、浩は「風雨は常なきもの、好機を逃すな」と主張、世祖はこれに従い分軍して掩撃、赫連昌軍を大破した。
- 太祖の命で鄧淵が始めた『国記』編纂は途絶えていたが、神䴥2年(429年)、浩・弟の崔覧・高讜・鄧穎・晁継・范亨・黄輔らが撰録し『国書』30巻を完成させた。
- 同年、蠕蠕(柔然)討伐の議で、保太后をはじめ内外の群臣が反対する中、浩独り賛成した。尚書令劉潔・左僕射安原らは黄門侍郎仇齊・推赫連昌の太史張淵・徐辯に「今年は三陰の歳で北伐は不利」と論じさせたが、浩は陰陽刑徳の理を説いて論破し、さらに淵らに「西国滅亡前の予兆を知りながら言わなかったのは不忠、知らなかったのは無術」と詰め、淵らは赫連昌の面前で応答できず恥じ入った。世祖は大いに喜び、保太后の前でも群臣に説かせ、浩は蠕蠕の来寇の常態と国力・降人の重用の実例を挙げて論破した。
- 諸軍出征後、蠕蠕は不意を突かれ、俘虜・家畜が数百万に及び、高車が蠕蠕を殺して三十余万落が降った。世祖が弱水を西行して涿邪山に至った際、諸将は深追いを恐れたが、天師(寇謙之)は浩の言に基づき窮討を勧め、世祖は聞かなかった。後に降人の証言で、蠕蠕の大檀が病により混乱し逃げ延びたことが知れ、世祖は追撃しなかったことを深く悔いた。この間、南朝は動かず、浩の見立て通りとなった。
- 浩は天文・星変に通じ、酢器に金銀銅の鋌を置き夜見た異変を鋌に文字で記した。世祖はしばしば浩の邸を訪れ異事を問い、寵愛は極めて厚く、侍中・特進・撫軍大将軍・左光禄大夫を加えられた。世祖は「征討の決断はすべて浩の導きによる」と諸将に語り、降った高車の首長たちに浩を示して「この人の胸中は甲兵に勝る」と誇った。以後、軍国の大計はまず浩に諮ることが命じられた。
対南朝方針をめぐる論争
- 南藩諸将が劉義隆(宋文帝)の来寇に備え先制攻撃を求めた際、浩は「南方は湿暑で疫病が起きやすく今は時機でない、秋涼を待って迎え撃つべし」と反対、世祖はこれに従った。
- 南鎮諸将がさらに司馬楚之・魯軌・韓延之らを用いた誘引策を求めた際、浩はこれにも反対し、南朝を過度に刺激すれば実害を招くだけと説いた。世祖は群議に押されて従わなかったが、浩はなお固く諫めた。
- 浩は天時(陰陽・日食・熒惑等)を根拠にこの年の南征は不利と繰り返し説いたが、世祖は世論に押されて公卿の議に従い、陽平王杜超を鄴に、司馬楚之らを潁川に鎮させた。宋の到彦之が清水から河に入り西進すると、世祖は赫連定討伐を先行するか迷い浩に問うたところ、浩は「劉義隆と赫連定は互いに相手が先に動くのを待つのみで連携は取れず恐れるに足らない、まず西の赫連定を平らげ、然る後に東の劉裕勢力を破るべし」と説いた。世祖はこれに従い平涼を平定、宴席で沮渠蒙遜の使者に「崔公の才略は当代随一」と称した。
- のちに冠軍将軍安頡が南俘を献じた際、宋の劉義隆の指示(魏の動きを見て前進か彭城で待機か)が浩の予測通りであったことが判明し、世祖は「浩の策を謬りと言った者たちも及ばなかった」と群臣に語った。
制度・暦法に関する上表
- 司徒に遷った際、方士祁纖が四王(東西南北)建立を上奏したが、浩は「先王は蕃屏の実によって国を建てるべきで、仮名で福を求めるべきでない」と反対し、代を万年と改める提案にも「太祖以来の国号を軽々に改めるべきでない」と反対、世祖はこれに従った。
- 河西王沮渠牧犍に離反の兆しがあった際、世祖の討伐可否の下問に、浩は「牧犍の悪心は既に露見しており、前回の北伐で損耗は少なく、諸弟の内紛もあり、討伐すべし」と答え、世祖も同意したが、公卿会議では奚斤ら三十余人が反対した。世祖は浩に反論させ、浩は『漢書』地理志を引いて凉州の水草の豊かさを論証し、李順ら反対派を「賄賂を受けて虚言を弄している」と非難、世祖が実地に確認して浩の正しさが証明され、凉州は水草豊かなまま平定された。
- 世祖はこの功を詔して称え、浩に監秘書事を命じ、中書侍郎高允・散騎侍郎張偉と共に『国書』の続修を命じた。恭宗(景穆太子)監国の際には浩は宜都王穆寿と共に輔政し、蠕蠕再討の議で劉潔らが異議を唱えたが、浩は過去の失敗の教訓(撤退の早さ)を踏まえ、積雪期の南徙を狙って進軍すべきと説き、世祖は四道に分けて進軍させたが、劉潔の妨害で戦果なく終わった(詳細は劉潔伝)。
- 世祖が薛永宗・盖呉討伐に西巡した際、浩は再三軍事判断を的中させた(永宗攻撃の可否、盖呉の営を先に討つべきとの進言)。ただし盖呉討伐では世祖が浩の進言(北道からの進撃)に従わず南道から渡渭したため、盖呉は北山に逃れて討ちきれず、世祖は後悔した。
- 世祖は浩の東宮輔佐の功に絹絮布帛各千段を賜った。著作令史の閔湛・郄標が浩に阿ねって石碑に国書を刻すことを請い、恭宗はこれを許し、天郊東三里に石壇を営み三百万の功を費やした。
- 世祖の河西巡狩に際し、浩は前漢武帝が凉州五郡を開いて匈奴討伐の資とした故事を引き、平定した凉州の民を移さず豪族を募って実らせるべきと上表した。また五寅元暦を作成し、太宗即位以来天文暦法を学び続けた経緯と、旧来の暦術の誤りを正した意義を上表した。
国史事件と刑死
真君11年(450年)6月、浩は誅殺され、清河崔氏の遠近縁者、および浩の姻戚である范陽盧氏・太原郭氏・河東柳氏がことごとく族滅された。事の発端は、郄標らが刻した石碑の国記が国事を詳しく記して憚らず、通行人の目に触れて世評となったことにあり、有司が取り調べ、浩は賄賂を受けたと自白させられ、秘書郎吏以下も皆死んだ。 浩は妻郭氏が仏教を信奉し経典を読誦するのを怒って焼き捨て灰を厠に捨てるなど廃仏の姿勢を貫いたが、幽閉された際は檻に入れられ城南で衛士数十人に辱められ、行路の人にも聞こえるほどであったといい、世は宰相の被戮でこれほどの辱めは例がないと報応と見た。また浩は李順を讒言で陥れた際に不吉な夢を見て、それを構えた馮景仁に不善の兆しと諫められたが改めず、族滅に至ったという。
人物・逸話
浩は書に巧みで、多くの人が急就章の書写を頼み、生涯で百を数えるほど書いたが、必ず「馮代彊」と記して国への忠を示したという(注参照)。浩の書の筆勢は先人(先祖)には及ばぬとされたが、世は珍重し多くの摸本が作られた。浩の母盧氏は盧諶の孫女で、浩は『食経』を著し、その序で少壮の頃見聞きした母・伯母たちの婦功の伝統、乱世の困窮の中で母が浩に文字を学ばせ九篇の書を口授した経緯、成長後の富貴と季路(子路)の負米の孝行への追憶を記した。 浩と冀州刺史崔頤・滎陽太守崔模は世代が近いが別祖であり、浩は魏晋以来の公卿の家柄を恃んで頤・模を軽んじ、模は浩を「桃簡(浩の小名)ごときに我が家の周児(頤の小名)を侮らせてなるものか」と評した。世祖はこれを聞いており、浩誅殺の際この二家は連座を免れた。浩自身は仏道を信じなかったが、模は篤く帰依し、浩は「不浄な頭を跪かせるとは、これも胡神か」と嘲笑したという。
史論
史臣曰く、崔浩は才芸に通じ、天人・政事の籌策において当代並ぶ者がなく、自ら張良に比したのも故なしとしない。太宗の治世から世祖の経営の時代にかけて言聴計従の信任を得たのは誠に厚遇であり、その功も大きかった。しかし謀は世を蓋うほどでありながら威は主を震わすまでには至らず、末路において不慮の禍に遭い、身を全うできなかった。鳥尽きて弓蔵われ、民がその上位を憎み、器が満ちれば必ず削がれるのが世の常とはいえ、これほどの人物がこれほど酷い最期を遂げたことは、まことに悲しむべきである。