魏書卷三十三 列傳第二十一 賈彝

武威姑臧の人(字は彦倫、?–?、六十一歳で卒)。賈誼の後裔と称され、慕容垂に仕えたのち北魏太祖に帰順して国政に参与したが、天賜末に叛胡に捕われ数年流転したのち帰還した。子の秀は権臣乙渾の専横に屈せず節を守った忠臣として知られる。

年表(1件)
  • 皇興三年469年子の秀が卒し、冀州刺史・武邑公を贈られ簡と諡された

孤高の忠臣

  • 賈彝(字は彦倫)は本来武威姑臧の人。六世祖の敷は魏の幽州刺史・広川都亭侯で子孫はこれにより家を構えた。父は苻堅の鉅鹿太守であったが誹謗の罪で獄に繋がれた。彝は十歳のとき長安に赴いて父の訴えを訟え、遠近の人々はこれに感嘆し「この子は英俊、賈誼の後裔にほかならず、これに及ぶ者はいない」と評した。弱冠で慕容垂の驃騎大将軍・遼西王・農の記室参軍となった。太祖はもとよりその名を聞き垂に彝を求める使いを遣わしたことがあり、垂はますますこれを重用し寵秩を加え驃騎長史・昌黎太守に遷った。垂がその太子の宝を魏に遣わし敗北すると、参合陂で彝及びその従兄・代郡太守の潤らを執えた。太祖即位後、彝を尚書左丞に拝し国政に参預させ給事中を加え、鄴に行台を置いて尚書和跋とともに鄴に鎮し新附の民を招携させた。しばらくして召還され、天賜末、彝は温湯に赴き療病することを願い出たが叛胡に拘えられ姚興のもとへ送られること数年、逃れ帰った。また屈丐に執えられたが屈丐は彼と語って悦び秘書監を拝した。六十一歳で卒し、世祖の赫連昌平定後、子の秀が遺骸を迎え代の南に葬った。
  • 秀は中書博士を歴任し中書侍郎・太子中庶子・揚烈将軍に遷り陽都男の爵を賜り本州大中正となった。恭宗が崩じると爵を辞して自邸に戻ったが、まもなく吏曹の事を掌った。高宗は秀が東宮の旧臣であったことから陽都子に進爵し振威将軍を加えた。丞相の乙渾が権勢を擅にし多くを殺害していた頃、渾の妻は庶姓(庶民出身)でありながら公主の号を求め、しばしば秀に言った。秀が黙っていると、渾は「公事にはすべて従うのに、私が公主号を求めても応じないのは何故か」と言った。秀は慷慨として「公主の称、王姫の号は尊寵の極み、庶族が求めるべきものではありません。もしこの号をみだりに窃取すれば必ず自らへの咎となるでしょう。秀は今日死ぬとも後日笑われるようなことはしたくありません」と大言し、渾の左右は失色し震懼したが、秀は神色自若としていた。渾夫妻は黙って恨みを含んだが、他日、太医給事の楊恵富の腕に「老奴官慳」の文字を書かせ、これを秀に見せて陥れる機会を伺っていたが、折しも渾が伏誅したため秀は難を免れることができた。秀が正義を貫き節を守るさまはみなこのようであった。
  • 時に秀は中書令の渤海の高允とともに儒者の旧臣として重んじられ、いずれも方岳(地方長官)に選ばれるところであったが、諮問のため留められ、それぞれ長子を郡守として出すことを聴された。秀は「若輩・微弱の身から仕官の機を得て多くの年を重ねましたが、若くして受けた恩に老いて何の成果も上げられませんでした、草露のように先に消えて殊私に報いられないことを恐れます、まして功のない子を先んじて栄達させることなど、上は聖慈に感謝しつつも下は深く驚懼するばかりです、成命を収めて微臣を安んじていただけますよう」と辞退し、ついに固辞して受けなかった。初めから終わりまで五帝に仕え、たとえ大官には至らずとも常に機要を掌り廉清倹約で資産を営まなかった。七十三歳で病にかかり医薬を給され几杖を賜った。朝廷の挙動や大事が決しないときは、常に尚書・高平公の李敷を邸に遣わして詔を決させた。皇興三年(469年)に卒し、本官のまま冀州刺史・武邑公を贈られ簡と諡された。

賈儁――洛州における文教振興

  • 子の儁(字は異隣)は爵を襲ぎ秘書中散・軍曹令を拝し、顕武将軍・荊州刺史として出たが例により伯に降された。先に上洛に荊州が置かれたがのち洛州に改められ、重山の中にあって民は学を知らなかった。儁は表を上げて学官を置き聡悟な者を選んでこれを教えさせた。州にあること五年で清靖寡事であった。洛陽遷都ののち儁が京師に朝じた際、素帛を賜った。景明の初め卒し本官のまま光州刺史を贈られた。
  • 子の叔休は爵を襲ぎ給事中を除せられ卒した。子の興は爵を襲いだ。興の弟の賓は尚書郎を歴任し清素をもって称され黎陽太守として出て官にて卒した。

賈潤の子孫

  • 潤の曾孫の禎(字は叔願)は経史に学び喪に居て孝で聞こえた。太和中中書博士・副中書侍郎の高聡が江左(南朝)に使いした際に随行し、帰ると母が老いて病んでいることから折々家に立ち寄って安否を尋ねたことに坐して免官された。しばらくして京兆王愉の郎中令に徴され洛陽令を行い、治書侍御史・国子博士に転じ威遠将軍を加えられ魯陽太守を行い、清素で人に善く接し百姓の心を得た。次第に司徒諮議参軍・通直散騎常侍に遷り冠軍将軍を加えられ、正光中に卒し平北将軍・斉州刺史を贈られた。子の子儒は司空田曹参軍。
  • 禎の兄の子・景儁もまた学識をもって知られ、奉朝請より京兆王愉府外兵参軍に遷ったが、愉が冀州で反乱を起こした際、官を授けようとしたのに景儁は受けず、愉に殺された。永平中、東清河太守を贈られ貞と諡された。景儁の弟の景興は清峻鯁正で若くして州主簿となったが以後仕官せず栖遅した。のち葛栄が冀州を陥した際、栄に虜われたが病と称して拝せず、景興は常に膝を撫でて「私はお前を裏切っていない、葛栄に拝さなかったのはそのためだ」と語ったという。