魏書卷三十三 列傳第二十一 公孫表

燕郡広陽の人(字は元元、?–422年頃)。慕容政権に仕えたのち北魏太祖に帰順し、韓非子を献じて信任を得た。吐京胡討伐では敗れるなど武功に失敗も重ねたが、泰常年間には劉裕死去に乗じた河南攻略を主導し虎牢・滑台を陥落させた。しかし士卒の死傷を問われ、太宗の命により密かに縊殺された。子孫の軌・質・邃は代々顕官を歴任した。

年表(5件)

河南征討の功と非業の最期

  • 公孫表(字は元元)は燕郡広陽の人。遊学して諸生となり、慕容沖の尚書郎、慕容垂が長子を破ったのちは従って中山に入り、慕容宝が逃げると帰闕した。江南への使いが旨に称い尚書郎を拝し、のち博士となった。初め太祖は慕容垂の諸子が勢要を分拠し権柄が推移してついに滅亡に至ったこと、また国の風俗が敦朴で嗜欲が少ないことから、その機心を啓き巧利に導くべきではないと深く戒めていたが、表はその意に迎合して韓非子二十巻を上呈し、太祖はこれを称賛した。
  • 太宗の初め、表は功労将軍・元屈の軍事に参与し吐京の叛胡討伐に赴いたが胡に敗れた。表が先に屈に討伐を止めるよう諫めていたことを太宗は善しとし固安子の爵を賜った。河西の飢胡・劉虎が流民を聚結して上党で反し南は河内に寇したため、詔により表に虎を討たせ、また表に姚興の洛陽戍将と期を結ばせ河南岸に備えさせてから進軍させ討たせようとした。時に胡は内部で互いに疑い殺し合っていたため、表はその離散の勢いに乗じ戍将との連絡を待たず衆を率いて討伐したが、法令が整わず胡に敗れ軍人が大いに傷殺された。太宗はこれを深く忿った。
  • のち劉裕が姚興を征し兗州刺史の尉建が寇の来襲を聞いて滑台を棄てて北走した際、詔により表は寿光侯・叔孫建に随い枋頭に屯した。泰常七年(422年)劉裕が死に河南の侵地を取ることが議された際、太宗は掠地は淮に至れば滑台などの三城は自然に降るとの考えであったが、表は先に城を攻めるべきと固執した。太宗はこれに従い、奚斤を都督とし表を呉兵将軍・広州刺史とした。斤らが河を渡り表が滑台を攻めたが長らく抜けなかった。太宗はついに南巡してこれを声援し、表らは滑台を克つと軍を西に進め劉義隆の将・翟広らを王楼で大破し虎牢を囲んだ。
  • 車駕が汲郡に次した際、始昌子の蘇坦・太史令の王亮が「表は虎牢の東の不利な地に軍を置いたため賊を早く滅ぼせずにいる」と奏した。太宗はもとより術数を好み、また前からの忿りを積んでおり、虎牢攻めで士卒の死傷が多かったことから、人を遣わして夜、帳中で表を縊り殺させた。時に六十四歳。太宗は賊がまだ退いていないためこれを秘して発表しなかった。
  • 初め表は渤海の封愷と友善であったが、のち子のために愷の従女を求めたところ愷が許さなかったため表はこれを甚だ恨んでいた。封氏が司馬国璠の事件に連座した際、太宗は旧族としてこれを赦そうとしたが、表は固くその罪を証言し、ついに封氏は誅された。表は人柄が外は和やかで内は忌みが深く、時人はこれをもって軽んじた。表は本来王亮と同じ営署にあったが、その退けられる際に亮を軽侮したため、亮は表を死に至らしめたのだという。

公孫表の子孫(公孫軌)

  • 第二子の軌(字は元慶)は若くして文学をもって知られ、太宗の時中書郎となり従軍して諸軍司馬に補された。世祖が赫連昌を平定した際、諸将帥を府蔵に引き入れそれぞれ意のままに金玉を取らせたところ、諸将は懐に一杯取ったが軌だけは手を伸ばさなかった。世祖は自ら金を探って軌に賜い「卿は財を前にしてみだりに取らないと言えよう、朕がさらに賜うのは衆人の前で廉直を示すためだ」と述べた。のち大鴻臚を兼ね持節して氐王・楊玄を南秦王に拝した際、境に着いても玄が郊迎しなかったため、軌はこれを責め「昔、尉他(南越王趙佗)は割拠したが陸賈が至ると匍匐して順ったからこそ竹帛に名を垂れた。今、君王に礼を尽くす姿勢がないのは藩臣にあらざる証だ」と述べた。玄は属官の趙客子を遣わして「天子は六合をもって家とされる、どこが王庭でないところがあろうか、ゆえにあえて入国してから謁見を請う」と答えさせたが、軌は「大夫が入境してもなお郊労があるのに、まして王命の使者においてをや」と答えた。玄はこれを恐れて郊まで詣で受命した。
  • 軌は帰還してその旨に称ったことから尚書を拝し燕郡公の爵を賜り平南将軍を加えられた。劉義隆の将・到彦之がその部将・姚縦夫を遣わし河を渡って冶坂を攻めさせた際、世祖はさらに北に及ぶことを慮り軌を壺関に屯させ、折しも上党の丁零が叛くと軌はこれを討平し、虎牢鎮将として出た。初め世祖が北征しようとした際、民に驢馬を発して糧を運ばせ、軌の管轄を雍州に赴かせたが、軌は驢の主にそれぞれ絹一疋を加えてから受け取らせた。百姓はこれを揶揄して「驢は強弱を問わず脊は自ずと壮んになる」と言い合い衆はみなこれを笑った。事に坐して召還され、真君二年(441年)五十一歳で卒した。
  • 軌の死後、世祖は崔浩に「私が上党を通り過ぎた際、父老がみな『公孫軌が賄賂を受けて賊を放したせいで今も余姦が除かれない、軌の咎である』と言っていた。彼は初め来たときは単馬に鞭を執っていただけなのに、去るときには車百両に物を載せて南へ帰った。丁零の渠帥が山に乗って軌を罵ったとき、軌は怒ってその罵った者の母を捕らえ矛でその陰部を刺して殺し『なぜこのような逆子を生んだのか』と言い、さらに下から上へ引き裂き四肢を山の樹に磔にしてその怒りをほしいままにした。これは忍ぶべきでないことを平然と行ったのだ。軌が早く死んだのは幸いだが、もし今も生きていれば私は必ずその一族を誅していただろう」と語ったという。
  • 軌はついに封氏を娶ることを得て二子・斌と叡をもうけた。斌は爵を襲ぎ内都大官を拝し、正光二年(521年)に卒し幽州刺史を贈られた。
  • 叡(字は文叔)は初め東宮吏、次第に儀曹長に遷り陽平公の爵を賜った。顕祖が苑内に殿を建てた際、勅により中秘の群官にその名を制定させると、叡は「臣が聞くところ、至尊至貴は帝王より崇いものはなく、天人が謙り損すことは謙光より大きなものはありません。伏して惟うに陛下は唐虞の徳を躬らにし道を存し神を頤い物外に逍遥される、宮居の名はその叡旨に協うべきです、臣愚考するに『崇光』が適当かと存じます」と上奏し、これが採用された。のち南部尚書で卒し安東将軍・幽州刺史を贈られ宣と諡された。叡の妻は崔浩の弟の娘で、子の良(字は遵伯)をもうけた。良は聡明で学を好み尚書左丞となり幹用をもって高祖に知遇された。
  • 良の弟・衡(字は道津)は良が爵を推し譲り、仕えて司直に至った。良は別の功により昌平子の爵を賜った。子の崇基は爵を襲いだ。

公孫質――卜筮への傾倒

  • 軌の弟・質(字は元直)は経義を好み文章も能くし、初め中書学生、次第に博士に遷った。世祖の涼州征討で宜都王穆寿に恭宗の輔佐が委ねられていた頃、蠕蠕が虚に乗じて塞を犯し候騎が京師まで至って京師は大いに震撼した。寿は質を篤く信任し謀主としていたが、質は性質が卜筮を好み、卜筮者がみな寇は来ないと言ったため備えを設けなかった。これにより質の判断が国を敗るところであった。のち深く自らを督励し、しばしば正直な進言をなして尚書に超遷し、真君九年(448年)に卒し中護軍将軍・光禄勲・幽州刺史・広陽侯を追贈され恭と諡された。

公孫邃――律令・戸籍制度の議論

  • 第二子の邃(字は文慶)は初め選部吏として積勤し次第に南部長に遷り、奏上に称があり南部尚書に遷り范陽侯の爵を賜り左将軍を加えられた。高祖の詔により邃は内都幢将・上谷公の張儵とともに衆を率いて蕭賾(南斉)の舞陰戍を討った。のち高祖と文明太后が王公以下を引見した際、高祖は「近年、畿内及び京城の三部を割分したが、百姓にとって益があったかどうか」と問うと、邃は「以前は人民が離散して主司が過剰であり督察するのが実に難しかったのですが、割分してからは衆賦が扱いやすくなり実に大いに益があります」と答えた。太后は「多くの者は益がないと言うが、卿の言はまことに治の機を識っているといえよう」と述べた。
  • 醴陽で虜掠された兵で帰還できた者に絹二十匹を賜う際、邃は貴賎の等級をつけるよう奏し高祖はこれを善しとした。例により侯に降されて改めて襄平伯となり、使持節・安東将軍・青州刺史として出た。邃が官にあって遺した業績が記すべきものであったことから詔により褒め称えられ、鎮東将軍・領東夷校尉を加えられ刺史はそのままとした。太和十九年(495年)官にて卒した。高祖は鄴宮にあってこれに挙哀した。当時、多くの制度が刷新されつつあった折で、青州の佐吏はどのような服喪をすべきか疑い問うと、詔に「今と古とは時が異なり、礼はあるいは隆く(重く)あるいは殺(軽く)するのは、専ら古に従うことであり、理として今と違えるならそれは専ら今に従うことであり、大いに古の義に乖く、当に両途を斟酌し得失を商量すべきである、吏民の情も苟くも順わせるべきではない。主簿は近代の相承の慣例で斬衰の喪服を着し葬儀が終われば除服とする、旧例通りとし、それ以外は服喪しないでよい。しかし大成(政治的な大転換)が起きて寥落した状況を鑑み、境内の民は齊衰三月を準用させるべきである」とあった。
  • 子の同始は爵を襲ぎ給事中で卒した。同始の弟の同慶は篤厚廉慎で司徒田曹参軍・李崇驃騎府外兵参軍となり、崇に随って北征し方直の誉れがあった。邃と叡は従父の兄弟にあたるが、叡の才器はやや優れており、また封氏の甥・崔氏の婿でもあった。邃の母の鴈門李氏は地望が縣(低い)とされたが、隔てて鉅鹿太守・祖季真は北方の人物によく通じており「士大夫たるものは良縁を得なければならない」と常に言い、公孫邃と叡が同堂兄弟でありながら、吉凶の集まりでは士庶の違いが表れると評していた。