苻堅丞相・王猛の孫として北魏に仕える
- 王憲(字は顕則)は北海劇の人。祖父の猛は苻堅の丞相。父の休は河東太守。憲は幼くして孤児となり伯父の永に随い鄴にあった。苻丕が帝号を称すると再び永を丞相としたが、永は慕容永に殺された。憲は清河に逃れ民家に匿れた。皇始中、輿駕(太祖)が趙郡の高邑に次した際、憲は帰服し、太祖はこれを見て「これは王猛の孫だ」と述べ厚礼で遇し、本州の中正・選曹事を領させ門下を兼掌させた。
- 世祖即位後は廷尉卿を行い上谷太守として出て中塁将軍を加えられ高唐子の爵を賜った。清廉に身を持し部下を率いて風化を大いに行き渡らせた。まもなく外都大官を拝し、のち中都に転じ二曹を歴任し獄を断ずるに旨に称い、劇県侯に進爵し竜驤将軍を加えられ、并州刺史として出て安南将軍を加えられ北海公に進爵、境内は清粛となった。京師に還ると憲は元老として特に錦繍・布帛・綿彩・珍羞・礼膳を賜った。天安の初め八十九歳で卒し鎮南将軍・青州刺史を贈られ康と諡された。
王憲の子孫
- 子の崇は爵を襲いだが早世した。子の仲智は爵を襲ぎ中書侍郎・安西将軍・幽州刺史を歴任し清平の誉れがあった。
- 崇の弟・嶷(字は道長)は若くして父の任により中書学生となり次第に南部大夫に遷った。高祖の初め青徐兗豫に出使して巡察し新附を撫慰し風俗を観省し、還って南部尚書に遷り任にあること十四年、当時南州は事が多く文奏が机に山積し訴訟者が門を埋めたが、嶷は性質が懦弱で決断に欠け終日座して昏睡していただけだった。李訢・鄧宗慶らは明察勤理と称されたが二人ともついに誅戮された。他の十数人も黜けられたり免ぜられたりする中、嶷だけが結局自らを保つことができた。時人はこれを「実に癡(愚か)、実に昏(暗い)ながらも保存を得る」と語ったという。散騎常侍・右将軍を加えられ東平侯の爵を賜り、まもなく安東将軍を拝し楽安公に進爵、持節・鎮西将軍・秦州刺史として出て華山公に改封され散騎常侍はそのままとし、のち入って内都大官となり卒した。
- 子の祖念は爵を襲ぎ官が東平太守に至ったが例により侯に降され卒し、寧朔将軍・光州刺史を贈られた。子の慶鍾は爵を襲ぎ給事中となったが貪穢で行いが無く事に坐して爵は除された。祖念の弟の雲(字は羅漢)は風尚があり、尚書郎より中書舎人に入り司州別駕・光禄少卿に転じ衛尉少卿に改授され、冠軍将軍・尚書・兗州刺史として出て、まもなく征虜将軍に進号したが、州にあって所部の荊山戍主・杜虞から財貨を受け、また官絹を染めて割り替えたことを御史に糾弾され廷尉に付されたが恩赦にあい免れた。熙平二年(517年)官にて卒し平南将軍・豫州刺史を贈られ文昭と諡された。九人の子があった。長子の昕(字は元景)は武定末太子詹事。昕の弟の暉(字は元旭)は早くから機悟で称され尚書儀曹郎・中書舎人を歴任し散騎常侍・鎮軍将軍・兗州刺史を贈られた。暉の弟の旴(字は仲明)は秘書郎・司徒主簿で天平中盗に害された。