魏書卷三十三 列傳第二十一 宋隠

清廉な出処進退

  • 宋隠(字は処黙)は西河介休の人。曾祖の奭は晋の昌黎太守、のち慕容廆の長史。祖父の活は中書監。父の恭は尚書・徐州刺史。慕容儁が鄴に徙った際、恭が初めて広平列人に家を構えた。隠は性質が至孝で十三歳にして成人の志を持ち、専心して学を好み、兵乱を理由に節を変えなかった。慕容垂に仕え尚書郎・太子中舎人・本州別駕を歴任した。太祖が中山を平定すると、隠を尚書吏部郎に拝した。車駕が北へ還ると詔により隠は本官のまま衛王儀を輔けて中山に鎮し、まもなく行台右丞に転じ選挙を領することはそのままとした。しばしば老病を理由に骸骨を乞うたが太祖は許さなかった。
  • まもなく母の喪により列人へ帰ったが、既に葬儀を終えると徴されたので固く病を理由に辞退した。しかし州郡が期限を切って厳しく促したため、隠は妻子を棄てて間道を通り避けた。のち長楽の経県に匿れ数年して卒した。臨終の際、子や甥たちに「もし父兄に順い郷党に悌を尽くし、郡に仕えて功曹史ほどになれば、忠清をもってこれに奉じれば十分だ、遠く台閣に詣でる必要はない。お前たちが富貴になれず、むしろ徒に門戸の累を延ばすことを恐れる。もし私の言葉を忘れるなら父を無みするに等しい、鬼にもし知があれば、私は帰って食すまい」と告げた。五人の子があった。
  • 第三子の温は世祖の時中書博士に徴拝され、卒して建威将軍・豫州刺史・列人定侯を贈られた。温の弟・演は顕祖の初め彭城征討に従い功があり明威将軍・済北太守を拝した。演の子・鲋(字は伯魚)は州別駕。
  • 隠の弟・輔(字は処仁)は若くして慷慨で大きな節操があり群書を博覧した。州に別駕として辟され早世した。

宋隠の叔父・洽の系統

  • 隠の叔父の洽は慕容垂の尚書であった。太祖が中山を囲んだ際、洽は所領を率いて専ら北囲を守り、洽の統べる守備で官軍が多く傷殺された。太祖はこれを深く忿恨し、城が平定されるとついに洽を殺した。子の順・訓もともに腐刑に処された。洽の第四子・宣(字は道茂)は当時数歳であり、親族が密かに逃がして免れた。のち范陽の盧元・渤海の高允及び従子の愔とともに徴されて中書博士を拝し、まもなく散騎常侍を兼ね劉義隆への使者に赴き冠軍将軍を加えられ中都侯の爵を賜り、中書侍郎を領して司隷校尉を行い、真君七年(446年)に卒し司隷を贈られ簡侯と諡された。
  • 子の謨(字は乾仁)は爵を襲ぎ遼西太守で卒した。子の鸞(字は珍和)は爵を襲ぎ東莞太守。鸞の弟の瓊(字は普賢)は若くして孝行で称され、母がかつて病んで季秋(陰暦九月)の頃に瓜を思いやまなかった際、瓊は夢に瓜を見て求めるとついに得た、時人はこれを異とした。母の没後、州郡がしばしば招いたが応じず家で卒した。子の仲美は武定末尚書水部郎。