魏書卷三十二 列傳第二十 封軌

封軌(字は広度)は封懿の一族(回の族叔)で、沈謹・博学で経学に通じ、方正な人柄で知られた。太和中に著作佐郎から尚書儀曹郎中に遷り高句麗に使いして功を挙げ、国子博士等を歴任した。務徳・慎言・遠佞・防姦の四戒を著すなど清廉な官吏として重んじられた。

経学と方正な人柄

  • 回の族叔・軌(字は広度)は沈謹で学を好み経伝に博通し、光禄大夫の武邑の孫恵蔚と志を同じくして友善であった。恵蔚は常に軌を推して「封生の経義に対する見識は、章句を奇とするにとどまらず、その要点を明らかにし全体の帰結をまとめる力においては、私に及ばないところが多い」と述べた。軌は自ら身を修め清潔にし儀容も甚だ立派であった。ある人が「学士は身なりに構わないものだが、この賢人はどうしてこれほど気を配るのか」と言うと、軌は笑って「君子は衣冠を整え瞻視を尊ぶもの、蓬頭垢面であることが賢たる証ではあるまい」と答え、その人は恥じて退いた。
  • 太和中著作佐郎を拝し次第に尚書儀曹郎中に遷り員外散騎常侍を兼ね高句麗に使いした。高句麗王の雲はその辺境の隔たりを恃んで病と称し自ら詔を受けようとしなかったが、軌は正色して詰り大義をもって諭すと、雲はついに北面して詔を受けた。先に契丹が辺民六十余口を虜掠しまた高句麗に虜われて東へ帰されていたことがあり、軌はその状を詳しく聞き書を移して徴すと、雲はすべて資給して送り帰した。有司は「軌は遠く絶域に使いし朝命を辱めることなく、権宜をもって辺民を諭し帰還させました、爵賞を加えるべきです」と奏した。世宗は「権宜による徴口は使者の常であるとはいえ、光揚に称えられるところがある、一階を賞するがよい」と詔した。考功郎中に転じ本郡中正を除せられた。渤海太守の崔休が吏部郎に入る際、兄の考課について軌に働きかけたが、軌は「法は天下の公平を保つもの、旧主だからといって曲げるべきではない」と答え、休はその守正を歎じた。
  • 軌は台にあって儒雅と称され、四門博士を遣わし諸州の学生の試験を明経学に照らして検試するよう奏請し、詔によりこれが許された。まもなく国子博士を除せられ揚武将軍を加えられ仮通直散騎常侍として汾州の山胡を慰労した。
  • 司空清河王懌が明堂・辟雍の修築を表し百寮に詔して議させると、軌は次のように議した(要旨)。「明堂とは政を布く宮であり国の陽に位置する、父を厳(尊)び天に配し朔を聴き教を設けるための、その経構の式は古くからのものだ。周官・匠人の職に『夏后氏は世室、殷人は重屋、周人は明堂』とあり、鄭玄は『あるいは宗廟を挙げ、あるいは王寝を挙げ、あるいは明堂を挙げているのは、互いにこれを示して同制であることを表している』と述べている。しからば三代の明堂はその制が同一である。周と夏殷の間には損益があったが明堂に関してはこれを改めなかった、五室の義を明らかにすることが天の数に合するためだ、ゆえに鄭玄はまた『五室とは五行を象る』と言う。しからば九階は九土に法り、四戸は四時に通じ、八窓は八風に通ずる、これはまことに不易の大範であり国家の恒式だ。上円下方で天地に則り、水を通して宮を巡らせ観省を節し、茅葺で白盛を質とし赤縁・白縁を飾る戸牖とする、これらはみな典籍に明記された制度の明義である。しかし秦の世に五典を焚滅し三代の制を毀却し先聖の教に依らなくなったため、呂氏月令には九室の義が見え、大戴礼には十二堂の論が著された。漢は秦の法を承け改めることができず、東西の両京ともに九室とした、ゆえに黄図・白虎通・蔡邕・応劭らはみな九室で九州を象り、十二堂で十二辰を象ると称している。しかし室は天を祭るためのもの、堂は政を布くためのもの、天に依って祭るがゆえに室は五を超えず、時に依って政を布くがゆえに堂は四を踰えない。州や辰の数に法るべき理由はどこにあろうか、九や十二にどのような効用があろうか。今、聖朝が道を尊び民を訓え礼を備え物を化そうとするなら、五室を則として永制とすべきだ。廟学の嫌(明堂と宗廟の混同)や台沼の雑(付随施設の混雑)については袁凖らがすでに正しく論じており、その遺論はすでに存する、あらためて載せる必要はない」。
  • まもなく本官のまま東郡太守を行い前軍将軍に遷り夏州事を行い、条教を立てることを好み所在で績があった。太子僕射に転じ廷尉少卿に遷り征虜将軍を加えられ、卒して右将軍・済州刺史を贈られた。初め軌は郭祚に深く知られ、祚は常に子の景尚に「封軌と高綽の二人はともに国を幹する才、必ず遠く至るはずだ。私は生涯みだりに人を進挙したことはないが、この二人を推挙するのは国のために賢を進めるだけでなく、お前たちの将来の橋渡しでもある」と語った。軌がこのように重んじられたのはこの通りである。軌は方直を自らの業とし、高綽もまた風格をもって名を立てていた。尚書令の高肇が司徒を拝した際、綽は送迎に往来したが軌はついに詣でず、綽は軌が来ないことに気付くとすぐに帰り「私は一生自らに規矩の乱れはないと思っていたが、今日の振る舞いは封生には遠く及ばない」と言った。軌は「務徳・慎言は修身の本、姦回・讒佞は世の巨害」と考え、務徳・慎言・遠佞・防姦の四戒を著したが、文が多いためここには載せない。

封軌の子孫

  • 軌の長子・偉伯(字は君良)は博学で才思があり弱冠で太学博士を除せられ、朝廷の大議のたびに偉伯は必ずこれに預かった。太保崔光・僕射游肇に高く評価され、太尉清河王懌が参軍事に辟したところ、懌は自ら孝経の解詁を著し偉伯に難例九条を作らせるとすべて隠れた漏れを発いた。偉伯はまた礼伝・詩易の疑事数十条を討論し儒者たちはみなこれを称えた。まもなく明堂の経始に際し広く儒学を集めてその制度を議し、九室・五室の論が久しく決しなかったが、偉伯は経緯を捜検して明堂図説六巻を上呈した。
  • 正光末、尚書僕射の蕭宝夤が関西行台郎に用いたが、宝夤が逆を起こすと偉伯は南平王冏と密かに関中の豪右・韋子粲らと結んで義兵を挙げる謀をなし、事が発覚して殺された。時に三十六歳。時人はこれを惜しんだ。永安中、散騎常侍・征虜将軍・瀛州刺史を追贈され、一子の出身を聴された。偉伯には子がなく、第三弟の翼に授けられた。偉伯は『封氏本録』六巻及び詩賦碑誄などの雑文数十篇を撰した。
  • 偉伯の弟・業(字は君修)は奉朝請を兼ね殿中侍御史を領し早世した。業の弟・翼(字は君贊)は容貌が美しく腰帯は十囲、兄・偉伯の立節の勲により給事中を除せられ、のち揚烈将軍を加えられ武定の初め卒した。翼の弟・述(字は君義)は武定末廷尉少卿。述の弟・詢(字は景文)は尚書起部郎。

史論

  • 史臣は言う。高敬侯(高湖)は才鑒明遠、機を見て動き身も名も俱に高く、代々の英才は天の与えるところであろう。崔逞は文学・器識ともに当年の俊才であったが、遠慮に欠き些細な言葉の応酬を軽んじたため、これが禍となった。頤はこの一族の名声を得ながらもその世は続かなかった。封懿は全うされたことが幸いであり、回はその家世を光らせることができた、これも凡人には及ばぬところであろう。