魏書卷三十 列傳第十八 宿石

赫連氏の裔として仕える

  • 宿石は朔方の人。赫連屈孑の弟・文陳の曾孫である。天興四年、文陳父子は闕に帰し太祖はこれを嘉して宗女を妻あわせ奴婢数十口を賜り上将軍を拝した。祖父の若豆根は太宗の時宿氏の姓を賜り上将軍を襲いだ。父の㳫干は世祖の時虎賁幢将となり平涼征討に従い功があり虎威将軍・侍御郎を拝し漢安男の爵を賜り、中散に転じ給事に遷り工曹を兼領した。駕に従い和竜討伐に功があり奴婢十七戸を賜り、真君四年(443年)駕に従い蠕蠕討伐で戦没した。
  • 世祖はこれを悼惜し、㳫干の子で時に十一歳の石を求め引見し、幼いことから帰国を許した。十三歳で爵を襲ぎ中散に抜擢され、駕に従って江に至り宣威将軍を拝した。興光中侍御史に遷り中塁将軍を拝し蔡陽子に進爵、宜官曹を典り内行令に遷った。苑中の遊猟に幸した際、石は高宗の御前で馬を道の峻しいところで走らせ馬が倒れて絶して久しく蘇らなかったが、これにより御馬が制御されるようになり、高宗はこれを嘉して綿百斤・帛五十匹・駿馬一匹を賜り義陽子に改爵した。
  • かつて狩に従った際、高宗が自ら虎を射ようとすると石は馬を叩いて諫め、高宗を高原の上に引き寄せたが、のちその虎が跳躍して人を殺した。詔に「石は忠臣として馬を制して切諫した、以後、罪を犯すことがあっても宥して坐さぬこと」とあり、駿馬一匹を賜った。上谷公主を尚し駙馬都尉を拝した。天安の初め散騎常侍・吏部尚書に遷り太山公に進爵し北中道都大将となり、延興元年(471年)に卒し太原王を追贈され康と諡された。葬礼は盧魯元の故事に依った。太和の初め子の倪が爵を襲ぎ比部侍御となった。