勇壮な護衛の将
- 来大千は代の人。父の初真は太祖に従い叱候山への避難に従い創業の功があり、官は後将軍・武原侯に至り八議に列した。大千は驍果で騎射に優れ騎都尉となり、永興の初め爵を襲ぎ中散に遷った。朝賀の日には大千は常に御鎧を着て殿前で馬を並べ、朝臣は嘆賞しないものがなかった。内幢将に遷り宿衛禁旅を典り、用法は厳明で上下は斉粛した。
- かつて太宗に従い狩をした際、高い岩上にいる虎を見て、大千は矟を持って直進しこれを刺し、手に応じて死んだ。太宗はその勇壮を嘉し、また殿中給事とした。世祖の即位後、襄城公盧魯元ら七人とともに常侍持仗侍衛となり昼夜左右を離れなかった。赫連昌討伐に従い長孫道生とともに賊と交戦した際、道生の馬が倒れ賊に撃たれそうになったが、大千は馳せ救い賊衆は散走した。大千は道生を助けて馬に上げ、免れることができた。蠕蠕討伐に従い戦功が最も多く、征北大将軍に遷り廬陵公の爵を賜り雲中に鎮し白道の軍事を統べた。(欠字)賊が北叛すると大千は前後してこれを追撃し殄滅した。
- 延和の初め車駕の北伐に大千は前鋒となり虜軍を大破した。世祖はその壮勇でしばしば戦功があり北境の険要にも通じていたことから、大千に六鎮を巡撫させ寇虜に備えさせ、その経略布置はよく事宜に適った。のち吐京の胡が反すると大千を都将として討平させた。吐京にあって卒し喪を平城の南に停めた際、世祖が出て還る途中これを見て問い、左右が答えると世祖は長く悼歎した。詔に「大千は忠勇で節を尽くし功は嘉すべき、今、喪を城内に入れ殯することを許す」とあり、司空を贈られ荘公と諡された。
- 子の邱頽は爵を襲いだが晋興侯に降され安逆将軍を拝し、駕に従い江に到り右将軍に進んだ。和平中、中散に遷り相曹都典奉事に転じ、皇興四年(470年)に卒し寧南将軍・陳留公を贈られ簡と諡された。子の蕇は爵を襲いだ。邱頽の弟・提は官が監御曹給事・冠軍将軍・兗州刺史・濮陽侯に至り、太和十年(486年)に卒した。