謀に長け、後に誅される
- 莫題は代の人。多智で才用があった。初め幢将として禁兵を領した。太祖の慕容宝征伐において、宝が夜襲を仕掛け軍中が驚駭し、京師に逃げ帰った者が「官軍は柏肆で敗れた」と言い触らしたため京師は不安に陥り、南安公元順がこれに乗じて国事を握ろうとした。題は順に「これは大事、軽々しく動いてはならぬ、審らかにして後の要を待つべきだ、そうでなければ禍が及ぶ」と諫めて止めさせた。この功により平逆将軍を拝し扶柳公の爵を賜り、左将軍に進号、高邑公に改められた。
- 中山太守として出て司州の山東七郡の事を督した。車駕の姚興征討の際、上党で群盗の秦頗・丁零の翟都らが壺関に衆を集めたため、題に衆三千を率いて討伐させた。上党太守が頗を捕らえて斬り、都は林慮に逃げたが、題は山を捜索してことごとく平らげた。
- かつて昭成帝の末、太祖の季父・窟咄が長安に徙され、苻堅の敗北ののち慕容永に従って東遷し、永の自立に際し窟咄は新興太守となった。登国の初め、劉顕が弟の亢埿らを遣わして窟咄を迎え南鄙を侵させた際、題は密かに太祖に対して二心を抱き、窟咄に矢を送って「三歳の犢がどうして重い載を勝えようか」と告げた。窟咄が年長で太祖が若年であることを喩えたのである。太祖はこれを恨みに含んでいたが、天賜五年(408年)に題が居処において傲慢で人主を擬しているとの告発があった。太祖は人を遣わし件の矢を示させ「三歳の犢は重い載に勝えるか勝えぬか」と告げさせた。題は詔を奉じ父子で対泣し、翌朝処刑された。