辺境平定と非業の死
- 庾業延は代の人、のちに岳と改名を賜った。父及び兄の和辰は世々畜牧を掌り、次第に中部大人に転じた。昭成帝が崩じ氐寇が内侮した混乱の中、家産や畜産を収斂して国君に匹敵するほどとなった。劉顕の謀反に際し、太祖が外に幸した折、和辰は献明太后を奉じて太祖のもとへ帰し資用を得させ、太祖は和辰を内侍長とした。しかし和辰は公私の旧畜を分別する際、旨に叶わぬところが多く太祖はこれを恨みに思った。一方の岳は独り恭慎で修謹、危難の折にうまく立ち回り、太祖に喜ばれ、王建らとともに外朝大人として軍国に参与した。
- 太祖が慕容垂との関係を絶ったのち、岳は大人として慕容永のもとへ使いし、永はその辞義に服した。垂が長子で永を囲んで急を告げ援を求めると、岳は陳留王虔とともに五万騎を率いて黄河を東渡して救援に向かい、秀容に至って山胡部の高車門らを破りその部落を徙したが、永が滅んだためそこで班師した。
- 中原平定に従い安逆将軍を拝した。官軍が柏肆で驚いた際、賀蘭部帥附力眷・紇突隣部帥匿物尼・紇奚部帥叱奴根らが聚党して陰館で反したが、南安公元順の討伐は成功せず死者数千に及んだ。太祖はこれを聞いて岳に万騎を率いて叱奴根らを討たせこれを殄滅し、百姓は安んじた。離石胡帥呼延鉄・西河胡帥張崇らが内徙を嫌って聚党反叛すると、岳は騎三千を率いて破り鉄を斬り崇を擒え、山を捜索して残党を散じさせた。功により西昌公の爵を賜り征虜将軍に進号した。また反人の張超・清河太守の傅世を破平し、岳を鄴行台とした。
- 岳は将として謀略があり治軍が清整で、常に少数をもって多数を撃ち、その智勇は諸将に冠絶すると称された。鄴行台が廃されると、統轄していた六郡をもって相州が置かれ、岳が刺史を拝した。公廉平当で百姓に称えられた。旧来の園池に時の果実が初めて熟した際、丞吏がこれを送ったが、岳は「果実がまだ天子に進上されていないのに私がどうして先に食べられようか」と受け取らず、その謹直さはこのようであった。のち司空に遷った。
- 岳の兄の子・路が罪を犯し諸父兄弟が誅されたが岳父子だけは特に赦された。天賜四年、詔により南宮に岳へ屋敷地を賜り、岳は家僮に治めさせた。折しも岳の衣服が鮮麗で行止の風采が人君を擬するかのようだと告げる者があり、太祖はこの頃すでに病がちで猜疑が多く、ついに岳を誅した。時の人は皆これを寃惜した。岳は代の西、善無の界に葬られ、のち世祖が赫連氏を討った際にその旧宅の跡を経て愴然として容を動かし、詔して廟を立て一州の民に四時祭らせた。その子孫で将帥に足る者を求め、子の陵が従征の功により襲爵を許された。
- 路は皇始の初め慕容宝征伐に従い城門校尉となり、司隸校尉に遷り高平公の爵を得たが、誅された。