魏書卷二十七 列傳第十五 穆崇
穆崇(代の人、?–406年)は太祖(道武帝)がまだ独孤部に身を寄せていた頃から仕え、劉顕の謀反や窟咄の変を事前に密告して太祖を危難から救った功臣。中原平定に従軍して歴陽公・安邑公を経て太尉に至り、宜都公に徙封された北魏建国の元勲である。生前は衛王儀の謀反への関与を太祖に秘され不問に付され、丁公と諡された。子孫は代々顕官・駙馬都尉を輩出し、北魏一朝を通じて栄達を保った家系となった。
出自と初期の功績
- 穆崇は代の人。その先祖は神元帝・桓帝・穆帝の時代に節を尽くした家柄で、崇自身は機敏で世渡りに長け、若い頃は盗みを働くこともあった。太祖(道武帝)がまだ独孤部に身を寄せていた頃、崇はしばしば往来して物資を奉じ、当時これに及ぶ者はなかった。
- のちに劉顕が謀反を企てた際、平文皇帝の外孫である梁眷がこれを察知し、密かに崇を遣わして太祖に急報させた。梁眷は崇に「顕がもし知って問い詰めても、丈夫たる者は節に死すべし、刀剣で刳られても漏らすな」と告げ、寵愛する妻と良馬を託して「事が露見すれば、これをもって身の証とする」と言った。崇が急報し太祖は賀蘭部へ馳せ向かった。顕は梁眷が謀を漏らしたと疑い、これを囚えようとしたが、崇はあえて「梁眷は恩義を顧みず顕の逆謀を助けた、今その妻馬を奪って恨みを晴らす」と言いふらし、顕はこれを信じた。
- 窟咄の変では、崇の甥の于植らが太祖を捕らえて窟咄に応じようと謀り、崇に「窟咄はすでに立ち、衆はみな帰服した、富貴を逃すな、舅よ図られよ」と告げたが、崇は夜のうちに太祖へ密告。太祖は于植らを誅し、陰山を越えて再び賀蘭部に身を寄せた。崇はこの功でいっそう厚遇された。
- 太祖が魏王となると崇は征虜将軍を拝し、中原平定に従軍して歴陽公の爵を賜り、散騎常侍となった。のち太尉に遷り侍中を加えられ、安邑公に徙封された。また高車征討にも従い大勝して帰還した。
太尉・宜都公としての晩年
- 姚興が洛陽を囲み、司馬徳宗の将・辛恭靖が救援を求めると、太祖は崇に六千騎を率いて赴かせたが、未着のうちに恭靖は敗れた。崇は野王に鎮し、豫州刺史を除せられ、本官のまま太尉に徴され、さらに宜都公に徙封された。
- 天賜三年(406年頃)に薨じた。先に衛王儀の謀反に崇も関与していたが、太祖はその功を惜しんで秘した。有司が諡号を奏上する際、太祖自ら諡法を検め、「述義克たざるを丁と曰う」の条に至って「これぞ相応しい」と述べ、丁公と諡した。
- 太祖が窟咄の難を避けた当初、崇を遣わして人心を探らせたことがあった。崇は夜、民家に至って馬を従者に預け、微服で敵陣に潜入したが、火明かりのために舂き働く婢に見咎められ、賊がみな騒ぎ起きた。崇は従者を見つけられず穴に匿れ、のち密かに馬を盗んで走り去り、大沢に宿ったところ、白狼が崇に向かって吠えた。崇は悟って馬を馳せ狼に従って走ると、去ったばかりの場所に賊の追手が迫っていた。こうして難を免れた。太祖はこれを異とし、崇に祠を立てさせ、子孫に代々祀らせた。太和年間、功臣を追録する際に崇も配饗された。
子孫(第一世代――遂留・乙九・真の系統)
- 長子の遂留は歴任して顕官に至り、蠕蠕討伐で功があり零陵侯の爵を賜ったが、のち罪により廃された。
- 乙九は内行長者として功により富城公を賜り、建忠将軍を加えられ、散騎常侍・内乗黄令・侍中に遷り、卒して静と諡された。
- 乙九の子・真は起家して中散、東宮に転侍し、長城公主を尚して駙馬都尉を拝したが、のち勅により離婚させられ、文明太后の姉を娶った。南部尚書・侍中を歴任し、卒して宣と諡された。高祖は崇の勲を追思し、著作郎の韓顕宗に真とともに碑文を撰定させ、白登山に建てた。
- 真の子・泰(本名は石洛、高祖が改名)は功臣の子孫として章武長公主を尚し駙馬都尉を拝し、羽猟四曹の事を典り、馮翊侯を賜り、殿中尚書に遷り散騎常侍・安西将軍を加えられ、公に進爵し、鎮南将軍・洛州刺史に出たが、例により侯に降された。のち右光禄大夫・尚書右僕射に徴され、さらに使持節・鎮北将軍・定州刺史として出て馮翊県開国侯に改封され食邑五百戸、征北将軍に進んだ。
- 文明太后が高祖を別室に幽閉し廃立を図ったとき、泰が切諫して止まった。高祖はこれを徳とし、山河を賜るほどの寵遇を与えた。泰は病を理由に恒州への転任を願い出て、陸叡を定州に転じさせ泰がこれに代わった。
- しかし泰は遷都(洛陽遷都)を望まず、叡が赴任する前に泰は既に定州に着任しており、ひそかに叡を扇動して叛を図った。叡・安楽侯元隆・撫冥鎮将魯郡侯元業・驍騎将軍元超・陽平侯賀頭・射声校尉元楽平・前彭城鎮将元抜・代郡太守元珍・鎮北将軍楽陵王思誉らと共謀し、朔州刺史陽平王頤を主に推そうとしたが、頤は従わず偽って承諾したふりをしつつ密かにこれを上表した。高祖は任城王澄に并州・肆州の兵を率いて討伐させた。澄はまず治書侍御史の李煥に単車で代に入らせ、不意を突いた。泰らは驚愕して計を失い、煥が逆徒を諭して禍福を説くと凶党は離心して従う者がなくなった。泰は敗を悟り、麾下数百人を率いて煥のいる郭門を攻めたが破れず、単馬で城の西へ逃げ、捕らえられて澄のもとへ送られた。澄も到着して党与を徹底追及し、高祖は代に赴いて自ら罪人を見て反状を問い、泰らは伏誅した。
- 真のもう一人の子・伯智は八歳で東宮に侍学し、十歳で太子洗馬・散騎侍郎を拝し、饒陽公主を尚して駙馬都尉となったが早世した。子は階。
- 伯智の弟・士儒(字は叔賢)は涼州に流されたのちに帰還を許され、太尉参軍事となった。子の容は武定中に汲郡太守。
子孫(乙九弟・忸頭の系統)
- 乙九の弟・忸頭は侍中・北部尚書に至り、卒して司空公を贈られ、敬と諡された。
- 子の蒲坂は虞曹尚書・征虜将軍・涇州刺史となり、卒して征西将軍・雍州刺史を贈られ、昭と諡された。
- 蒲坂の子・韶(字は伏興)は員外散騎侍郎・代郡太守・征東将軍・金紫光禄大夫を歴任し、卒して使持節・都督冀相殷三州諸軍事・驃騎大将軍・冀州刺史を贈られ、文と諡された。
- 韶の子・遵伯は幽州司馬。
子孫(遂留弟・観の系統――穆観)
- 遂留の弟・観(字は闥抜)は崇の爵を襲い、若くして文藝で名を知られ、内侍に選ばれ太祖に重用された。太宗即位後は左衛将軍として門下を統べ、詔命の出納や旧事の下問に遺漏なく応じ、太宗に奇才とされた。宜陽公主を尚し駙馬都尉を拝し、太尉に累進した。
- 世祖(太武帝)の監国のとき観は右弼となり、外では朝政を統摂し、内では左右に応対し、事の大小を問わず取り仕切った。一日中穏やかで喜怒の色を出さず、謙虚に人を導き、富貴をもって人に驕らなかった。
- 泰常八年(423年)、苑内で暴疾により薨じた。時に三十五歳。太宗は自ら喪に臨んで悲しみ左右を動かし、通身に隠起金飾を施した棺を賜い、喪礼は安城王叔孫俊の故事に依った。宜都王を贈られ、文成と諡された。世祖は即位後、群臣と談宴するたびに、泰常以来の佐命の勲臣で文武を兼ね備えた者は観に及ぶ者がないと歎惜し、このように称えられた。
穆寿(観の子)
- 観の子・寿は爵を襲ぎ、若くして父の任により東宮に侍し、楽陵公主を尚して駙馬都尉となった。父に似て明敏で、世祖に重んじられ下大夫に抜擢され、機弁の評判が高く、侍中・中書監に遷り南部尚書を領し、宜都王に進爵、征東大将軍を加えられた。
- 寿は「祖の崇は先皇の危難の折、梁眷の誠心の密告のおかげで功を立て後世に福を流した。昔陳平は賞を受けても功を無知(陳平を推挙した無知という人物)に帰した。今、眷の元勲はいまだ録せられぬのに私だけが代々栄を受けるのは、古の賢に恥じ、国の典に虧けるところがある」と辞退を申し出た。世祖はこれを嘉し、眷の子孫を求めさせて孫を得、郡公の爵を賜った。
- 世祖の涼州親征に際し、寿に恭宗(景穆太子)を輔け要機を総録させ、内外の事を聴かせた。行軍が雲中に至り黄河を渡ろうとする際、宮中で諸将を宴し、世祖は静室に寿・司徒崔浩・尚書李順を別に召して言った。「蠕蠕の吳提は牧犍と連和しており、朕が涼州を征すると聞けば必ず塞を犯すだろう。もし漠南に伏兵してこれを殲滅すれば容易い。ゆえに壮兵肥馬を留めて卿に太子を輔佐させる。収穫が終わったら要害に分けて伏せ、虜を深く誘い込んでから撃てば必ず擒にできる。涼州は路が遠く朕は救援できぬ。もし卿が朕の指図に背いて虜に害されれば、朕は帰って卿を斬る。崔浩・李順が証人だ、虚言ではない」。寿は頓首して詔を受けたが、卜筮の言を信じて賊は来ないと判断し、備えを設けなかった。果たして吳提が至り善無まで侵し、京師は大いに驚いた。寿はなすすべを知らず西郭門を築こうとし、恭宗に南山への避難を請うたが、恵太后は聴かず取りやめた。司空長孫道生らを遣わしてこれを撃退させた。世祖は帰還後、大きな損傷がなかったため咎めなかった。
- 恭宗の監国のとき、寿は崔浩らと輔政したが、人々は浩を敬うのに寿だけはこれを凌ぎ、また自らの地位に恃んで人が及ばぬと思い込み、その子の師に「わが子と私さえいれば人に勝つに足る、苦しんで教える必要はない」と語った。父兄を僕隷のように扱い、夫婦で並び座して食し父兄には残り物を食べさせるほど無礼で、当時の人に鄙しめ笑われた。真君八年(447年)に薨じ、太尉を贈られ、文宣と諡された。
穆寿以降の系統
- 子の平国は爵を襲ぎ、城陽長公主を尚して駙馬都尉となり、侍中・中書監、太子四輔となったが正平元年(451年)に卒した。
- 平国の子・伏干は爵を襲ぎ、済北公主を尚して駙馬都尉となり、和平二年(461年)に卒し、康と諡された。子はなし。
- 伏干の弟・羆は爵を襲ぎ、新平長公主を尚して駙馬都尉となり、また虎牢鎮将となったがしばしば不法により罪を得た。高祖は勲徳の裔であることから譲って赦し、征東将軍・吐京鎮将に転じさせた。羆は善を賞し悪を罰して自ら深く律したが、西河の胡が叛いたとき、これを討とうとしたところ離石都将の郭洛頭が命に背いて従わず、羆は上表して自ら威が下に行き届かなかったと弾劾し、刑戮を請うた。高祖は洛頭の官を免じた。山胡の劉什婆が郡県を寇掠すると羆はこれを討滅し、以後管内は粛然として敬い憚らぬ者はなかった。のち吐京鎮を汾州に改め羆を刺史とした。前の吐京太守劉升は郡において威恵があり、任期が満ちて都へ還る際、胡民八百余人が羆のもとへ留任を請いに来た。前の定陽令呉平仁もまた恩信があり戸数が数倍に増えたため、羆はこれら吏民が慕う者について表を上げて請い、高祖はみな聴き入れた。羆がしきりに劉升らを推挙したため、管内の守令はみな自ら励み、威化が大いに行われ百姓は安んじた。州民の李軌・郭及祖ら七百余人が闕に詣でて羆の恩徳を頌え、高祖は羆の政治が民を悦ばせているとして秩を増し任期を延ばした。のち光禄勲に徴され、慣例により王位から魏郡開国公に降され食邑五百戸、さらに鎮北将軍・燕州刺史として広寧に鎮し、まもなく都督夏州高平鎮諸軍事・本将軍夏州刺史として統万に鎮した。のち侍中・中書監を除せられたが、穆泰の反乱に密かに通じ、赦免ののちに事が発覚し封を削られ庶人となって家で卒した。世宗の時、鎮北将軍・恒州刺史を追贈された。
- 羆の子・建(字は晩興)は性質が開放的で文史を好み、起家して秘書郎、直閤将軍・兼武衛に遷った。建の妻は尒朱栄の妹で、建は常に栄に依附した。栄が洛陽に入ったのち、鎮東将軍・金紫光禄大夫・征北将軍を除せられ済北郡開国公に封じられ、のち散騎常侍・車騎大将軍・左光禄大夫、兼尚書北道行台并州事に遷った。元曄の即位に際し建は尚書右僕射を兼ね、まもなく侍中・驃騎大将軍に転じた。出帝の末年、本官のまま儀同三司・洛州刺史となり、天平中に事に坐して五原城北で自殺した。子の千牙は武定中に開府祭酒。
- 建の弟・衍(字は進興)は解褐して員外郎、新興県開国子に封じられ、のち通直常侍・雲州事を行った。
- 羆の弟・亮(字は幼輔、初め字は老生)は早くから風度があった。顕祖の時、起家して侍御中散、中山長公主を尚して駙馬都尉となり、趙郡王に封じられ侍中・征南大将軍を加えられ、長楽王に徙封された。高祖の初め、使持節・秦州刺史として出て、一年に満たぬうちに大いに名声を挙げ、殿中尚書に徴され、さらに使持節・征西大将軍・西戎校尉・敦煌鎮都大将に遷り、寛簡を旨とする政治を行い窮乏を賑恤した。召還されると百姓はこれを追慕した。都督秦梁益三州諸軍事・征南大将軍領護西戎校尉・仇池鎮将を除せられた。
- このとき宕昌王梁彌機が死に、子の彌博が立ったが吐谷渾に逼られて仇池に来奔した。亮は彌機の蕃教が世に著しかったことを憐れみ、彌博は凶悖にして氐羌に見捨てられていたので、彌機の兄の子・彌承を戎民が慕っていることから、彌承を立てるよう表請し、高祖はこれに従った。そこで騎兵三万を率いて竜鵠に至り、吐谷渾を撃退して彌承を立てて還った。この頃、階陵・比谷の羌である董耕・奴斯卑らが衆数千人を率いて仇池に寇し陽遐嶺に屯したが、亮の副将楊霊珍が騎兵を率いてこれを撃退した。氐の豪族楊卜は延興以来従軍して二十一戦を経ていたが、以前の鎮将に才を抑えられ聞き入れられなかった。亮は卜を広業太守とするよう表し、豪族はみな悦び境内は大いに安んじた。
- 侍中・尚書右僕射に徴された。このとき司州が再置され、高祖は「司州が始めて立ち僚吏がいない、まず中正を立てて選挙を定める必要がある。中正の任には必ず徳望を兼ね備えた者を用いねばならぬ。世祖の時、崔浩は冀州中正、長孫嵩は司州中正となり、得人と称された。公卿らは互いに推挙し、必ず相応しい人物を得よ」と述べた。尚書の陸叡が亮を司州大中正に推挙した。時に蕭賾(南斉)が将の陳顕達を遣わして醴陽を攻め陥したため、亮に使持節・征南大将軍・都督懐洛南北豫徐兗六州諸軍事を加えて討伐させると、顕達は逃走し、亮は帰還した。まもなく司空に遷り律令の議定に参与し、慣例により爵を公に降された。
- 文明太后が崩じてすでに一月を過ぎたが高祖の哀毀がなお甚だしかったので、亮は表を上げて諫めた(要旨)。「王者は至尊至重にして父を天、母を地とし百霊を懐柔する。古の哲王が礼を制し政を立てるのは必ず天に順ってのちに動くもの。大舜の至孝も納麓の前には事があり、孔子の至聖も喪に過瘠の紀はなく、礼は諸侯の喪に備わって天子の式はない。位重き者は世のために己を屈し、聖に居る者は命に達して情を忘れる。陛下の至孝の痛みは期年の喪に服され、練事すでに終わってもなお号慕は始めのごとし。これは天子としての制を廃し宗祀の旧軌を欠くことになる。文明太皇太后の恩に報いようとするあまり、前代に比べて過度に慼えるのは、帝の則に従い身を約する道ではない。陛下は天地の子であり万民の父母でもある。子が過度に哀しめば父はそのために惨悴し、父が過度に慼えば子はそのために憂傷する。神祗の霊も和気を損ない風旱を招く恐れがある。願わくは陛下、上は金冊の遺訓を承け、下は億兆の心に応え、時に軽服を襲い常膳を数々召し、郊祠を修め崇め、輿駕を時に動かして憂煩を釈き、広く採り諮って性気を養われよ」。詔答(要旨)「孝悌の至りは通じぬところがないはずだが、今飄風・亢旱にして時雨が降らぬのは、誠慕がなお濃からず幽顕に感ぜぬためであろう。過哀の咎という言はまだ承服できぬが、上表により悲愧が増した」。
- まもなく太子太傅を領した。太極殿の造営に際し、高祖は太華殿に群臣を引見して「朕は先帝の意を仰ぎ殿宇を営もうとし、役夫がすでに集まり工事の日も近い。永楽宮に徙居して喧噪を避けたいが、この殿は高宗(文成帝)が造られ、顕祖を経て朕が幼くしてここで位を受けた場所であり、壊すとなると悽愴の念を禁じ得ない。ゆえに卿らと対面して別れを告げる」と述べた。亮は「卜筮は典経に載る古来のもの、事の可否を占うのに用いられてきた。興建の功は容易ではなく、蓍亀に訊ねて可否を定められたい。また昨年の役作ですでに功が多く、太廟・明堂が一年で完成した上、続けて興せば民力が疲弊しよう。材木も伐り出したばかりで堅固でない。一年遅らせて小康を得られたい」と答えた。高祖は「もし結局造らぬのなら卿の言う通りにしよう。しかし後に必ず造るのなら一年遅らせて何の益があろうか。朕が遠く前王を見るに、興造せぬ者はいない。周の創業には霊台を建て、漢の受命には未央宮を草創の初めからこのように造った。まして朕は累聖の運を承け太平の基にあり、天下清晏にして年穀も豊かな今このときに大功を成すべきだ。人の寿命は定まった分があり、蓍蔡がいかに智慧を尽くしても如何ともし難い、天分に委ねればよく、あえて卜筮に頼る必要はない」と述べ、永楽宮に遷った。
- のち高祖は朝堂で亮に「三代の礼では日の出とともに視朝したが、漢魏以降礼儀は次第に簡略化され、晋令には朔望に公卿を朝堂に集めて政事を論ずるとあるが天子親臨の文はない。今、卿らの日中の集まりを機に、日中前は卿らが自ら政事を論じ、日中後は卿らと共に可否を議したい」と述べ、奏案を読ませ自ら次第を定めた。また「徐州が帰化人に王者の禄を給するよう表しているが、民の父母としては当然許すべきだ。ただ今、荊揚は服さず書軌もいまだ一つにならず、まさに自ら六師を率いて江介の罪を問おうとしている。万戸の投化に毎年百万を費やすとすれば蕃儲は空になる、たとえ千万戸を得ても天下は一統とはならぬ、貧に随って賑恤したいがどう思うか」と問い、亮は「存すべき遠大の志は聖旨の通りです」と答えた。
- 車駕の南遷に際し武衛大将軍に遷り本官のまま中軍事を摂した。高祖の南伐に際しては録尚書事として洛陽に留鎮した。のち高祖が小平から舟に乗り石済に幸そうとした際、亮は「垂堂の誨めは古よりの成規、安きにあって危うきを思うことは周易にも著されている。匹夫の賎しき者でさえ自ら軽んじない、まして万乗の尊が。昔、漢帝が舟に乗って渭水を渡ろうとしたとき、王広徳が首の血で車輪を汚してまで諫め、帝は感じて橋を用いた。小さな水を渡るのでさえこのようであった、まして洪河の浩汗たるや測り難い恐れがある。車乗も人によって奔逸し敗れる害があるのに、水の緩急は人が制御できるものではない。万一の難があれば宗廟をどうするのか」と諫め、高祖は「司空の言はその通りだ」と述べた。
- 亮の兄・羆が穆泰の反乱に関与すると、亮は府事を司馬の慕容契に付し自ら弾劾を上表したが、高祖は優詔を与え許さず、そのまま事を摂させた。亮がしきりに固辞したのちようやく許された。まもなく使持節・征北大将軍・開府儀同三司・冀州刺史を除せられ、頓丘郡開国公に徙封され食邑五百戸、崇の爵を継いだ。世宗即位後は定州刺史に遷り、まもなく驃騎大将軍・尚書令を除せられ、俄かに司空公に転じた。景明三年(502年)薨じ、時に五十二歳。東園温明秘器・朝服一具・衣一襲・銭四十万・布七百匹・蝋二百斤を給され、世宗自ら小斂に臨み、太尉公・領司州牧を贈られ、匡と諡された。
穆亮の子孫(紹)
- 子の紹(字は永業)は、高祖が貴臣の世冑として顧念し、九歳で員外郎を除せられ東宮に侍学、太子舎人に転じ、十一歳で琅邪長公主を尚し駙馬都尉を拝した。散騎侍郎で京兆王愉の文学を領した。世宗の初め、通直散騎常侍として高陽王雍の友となったが父の喪に遭い、詔により起こされて爵を襲ぎ散騎常侍領主衣都統となり、秘書監・侍中・金紫光禄大夫・光禄卿に遷り、さらに衛将軍・太常卿に遷った。使持節・都督冀瀛二州諸軍事・本将軍冀州刺史を除せられたが、老母を理由に固辞し、旨に忤らって免官された。中書令を除せられ、七兵尚書に転じ、殿中尚書に徙り、生母の喪に遭って喪に居ることを免ぜられたが孝を以て聞こえた。また衛大将軍・左光禄大夫・中書監を除せられ、再び侍中として本邑中正を領した。
- 紹は他に才能があるわけではなかったが資性は方正重厚で、賓客と接することが少なく人の門を訪ねることも稀であった。領軍の元乂が当権熏灼(権勢を極めていた)の頃、紹のもとを訪ねたが、紹は階を下りて迎え送るのみで、時人はこれを称賛した。皇太后が元乂を黜けようと猶予していたとき紹はこれに賛成し、功により特進を加えられ、次子の巌が給事中を拝し、まもなく儀同三司領左右を加えられた。
- 侍中の元順が紹と同直していたとき、酔って紹の寝所に入り込んだことがあり、紹は被を抱えて起き上がり、正色して「老身は二十年侍中を務め、卿の先君ともしばしば職を同じくした。卿が後進とはいえ、このように排突してよいものか」と譲めた。順は事を謝して家に帰り、詔諭を受けてようやく再び出仕した。車騎大将軍・開府・定州刺史を除せられたが固辞して拝さず、また侍中を除せられたが病と称して起たなかった。河陰の変では、そのため難を免れた。
- 荘帝が立つと尒朱栄は人を遣わして紹を徴した。紹は必ず死ぬと覚悟し、哭して家廟に辞し、邙山で栄に見えた際も拱手して拝さなかった。栄もまた意を矯めて礼遇し、人に「穆紹は虚しく大家の児ではない」と語った。車駕が入宮すると、まもなく尚書令・司空公を授けられ王に進爵し、班剣四十人を給され、なお侍中を兼ねた。時に河南尹の李奬が紹を訪ねた際、奬は紹が自分の郡の民であるとして必ず敬うだろうと思ったが、紹もまた封邑を恃み奬が自分の国主であるとして膝を動かさなかった。奬はその位望を憚って拝礼して帰り、議者は両者をともに譏った。
- 尒朱栄の葛栄討伐では上党王天穆を前鋒として懐県に次させ、司徒公の楊椿を右軍とし、紹を後継としたが未発のうちに葛栄が擒えられたため中止となった。まもなく降王が本爵に復した。元顥が洛陽に入った際、紹は兗州刺史となり東郡に至ったが顥が敗れたため引き返した。普泰元年、都督青斉兗光四州諸軍事・驃騎大将軍・開府青州刺史を除せられたが未行のうちに、その年九月、五十二歳で薨じた。侍中・都督冀相殷三州諸軍事・大将軍・尚書令・太保・冀州刺史を贈られ、文献と諡された。
- 子の長嵩(字は子岳)は起家して通直郎、再遷して散騎常侍、爵を襲ぎ鎮東将軍・光禄少卿に転じ、興和中に卒し、都督冀滄二州諸軍事・征東将軍・冀州刺史を贈られた。子の巌は武定中に司徒諮議参軍。
- 平国の弟・相国は官が安東将軍・済州刺史・上洛公に至った。
- 相国の弟・正国は長楽公主を尚して駙馬都尉となった。子の平城は早世したが、高祖の時始平公主が宮中で薨じた際、平城に駙馬都尉が追贈され公主と合葬された。平城の弟・長城は司徒左長史。子の世恭は武定中朱衣直閤。長城の弟・彧は符璽郎中で卒した。子の永延は尚書騎兵郎・青州征東司馬。
- 正国の弟・応国は征西将軍・張掖公。子の度孤は爵を襲ぎ平南将軍・梁城鎮将。子の清休は将略に優れ司農少卿・武衛将軍・左光禄大夫、驃騎大将軍・夏州刺史に出た。子の鉄槌は秘書郎。
- 応国の弟・安国は金部長・殿中尚書を歴任し右衛将軍を加えられ新平子の爵を賜ったが、乙渾に殺され征虜将軍を追贈された。子の吐万は爵を襲ぎ襄城鎮将。子の金宝は秘書郎。
子孫(寿の弟――伏真・多侯)
- 寿の弟・伏真は高宗の世に尚書に遷り任城侯の爵を賜り、兗州刺史に出て寧東将軍・済陽公を仮された。子の常貴は南陽太守。
- 伏真の弟・多侯は殿中給事・左将軍を歴任し長寧子の爵を賜り、可衛監に遷った。高宗が崩じ乙渾が専権した際、司徒の陸麗が代郡の温湯で療養していたが、渾はこれを忌み多侯を遣わして麗を追わせた。多侯は麗に「渾には君を無みする心がある、大王は衆望を集める身、去れば必ず危うい、ゆっくり帰って策を図られよ」と告げたが、麗は従わず渾に害された。多侯もまた殺され、烈と諡された。子の胡児は爵を襲いだ。
子孫(観の弟――翰の系統)
- 観の弟・翰は平原鎮将、西海王として薨じた。子の竜仁は爵を襲いだが公に降されて卒した。子の豊国は爵を襲いだ。
- 豊国の弟・弼は風格があり自らの身の処し方に長け、経史を渉猟して長孫稚・陸希道らと世に斉名したが、己を誇り人を陵ぐところがありやや損なわれた。高祖が氏族を定めた際、弼を国子助教にしようとしたが、弼は「先臣以来代々恩を蒙ってきたのに、徒流の輩に比校されるのは実に慙屈にたえない」と辞退した。高祖は「朕は胄子を励まそうとして卿を先にしようとしたのだ、白玉を泥に投げても汚れるものか」と述べ、弼は「明時に遇いながら泥滓に沈むのを恥じます」と答えた。折しも司州牧咸陽王禧が入朝し、高祖は禧に「朕と卿とで州都となり一人の主簿を挙げよう」と述べ弼に謁見を命じ、これにより弼は高祖に知られるところとなった。輿駕の南征に特に随従を命じられた。
- 世宗の初め尚書郎を除せられ、選ばれて高平王懐の国郎中令となり、しばしば匡諫の益があり世宗に善しとされた。中書舎人を除せられ、司州治中別駕に転じ、歴任して称があった。粛宗の時、河州の羌の却鉄忽が反すると勅により黄門を兼ねて慰諭し、忽は功により前将軍を加えられ銭帛を賜った。まもなく本官のまま揚州事を行い、平西将軍・華州刺史に追拝され、州で卒した。時に五十一歳。使持節・征北将軍・定州刺史を贈られ、懿と諡された。子の季斉は釈褐して司徒参軍事・開府騎兵参軍。
- 翰の弟・顗は忠謹で材力があり、太宗の時中散となり侍御郎に転じた。世祖に従い赫連昌を征して勇冠一時と称され、世祖に嘉されて侍輦郎・殿中将軍に遷り泥陽子の爵を賜った。和竜征討では功が諸将に超え司衛監を拝し竜驤将軍を加えられ長楽侯に進爵した。かつて世祖に従い崞山で狩をした際、虎が突出したのを顗が搏ち取り、世祖は「詩に言う『力あること虎のごとし』とはこのことだ、顗はそれを超えている」と歎じた。のち駕に従い白竜へ西征し、蠕蠕を北討して功により散騎常侍・鎮北将軍を加えられ建安公に進爵、北鎮都将に出て殿中尚書に徴され、涼州に出鎮して名声を挙げ、帰って散騎常侍・太倉尚書を加えられた。高宗の時、征西大将軍として諸軍事を督し吐谷渾を南道から征したが賊撃に進まなかったことに坐して官爵を免ぜられ辺境に徙された。高祖はなお顗の前朝での勲功を認め内都大官に徴し、天安元年(466年)に卒し、征西大将軍・建安王を贈られ、康と諡された。
- 子の寄生は爵を襲いだ。寄生の弟・栗は涼州鎮将・安南公。子の祁(字は願徳)は通直常侍・上谷河内二郡太守・司州治中・太子右衛率となり、卒して斉州刺史を贈られた。子の景相(字は覇都)は中書舎人・上党太守。
- 栗の弟・泥乾は羽林中郎となり臨安男の爵を賜り、のち顕職を歴任して冀州刺史を除せられ安南将軍・鉅鹿公を仮され卒した。子の渾は爵を襲ぎ秘書中散。子の令宣は通直常侍。
崇の宗人・醜善の系統
- 崇の宗人である醜善は太祖の初め部を率いて帰附し、崇と心を同じくして力を尽くし外侮を防いだ。左右として窟咄・劉顕討伐に従いこれを破平し、また賀蘭部を撃ち厙莫奚を平らげ、天部大人を拝して東蕃に居り卒した。
- 子の莫提は中原平定に従い中山太守となり、寧南将軍・相州刺史を除せられ陽陵侯を仮されて卒した。
- 子の吐は太宗の世に散騎常侍となり、侍中・鎮東将軍として卒した。
- 子の敦は輔国将軍・西部都将となり富平子の爵を賜り卒した。
- 子の純は爵を襲ぎ散騎常侍・光禄勲を歴任、高祖の時右衛将軍、まもなく右将軍・河州刺史を除せられ卒し、鎮北将軍・并州刺史を贈られた。子の盛は爵を襲ぎ直閤将軍。盛の弟・裕は輔国将軍・中散大夫。裕の子・礼は東牟太守。礼の弟・略は武定末に魏尹丞。
- 純の弟・鑖は東宮庶子・汲郡太守を歴任し、世宗の時懐朔鎮将・東北中郎将・豳幽涼三州刺史となり、粛宗の世に平北将軍・并州刺史・金紫光禄大夫を除せられ、公にあって威猛をもって称され、七十四歳で卒し、散騎常侍・征東将軍・相州刺史を贈られ安と諡された。
- 子の顕寿は長水校尉。顕寿の弟・顕業は散騎侍郎で卒した。
- 顕業の子・子琳は秀才に挙げられ安戎令となり吏幹に優れ、長孫稚に従い蜀を征して功があり、尚書屯田郎中を除せられ、出帝の即位に際し儀曹事を摂し高唐県開国男に封じられ食邑二百戸となったが、孝静の初め鎮東将軍・司州別駕として民田を占奪したことにより官爵を免ぜられた。のち何至羅国主・副羅越居が蠕蠕に破られその子・去賓が来奔した際、斉献武王(高歓)が去賓を安北将軍・肆州刺史・高車王に封じ夷虜を招慰するよう奏し、子琳を去賓の長史とし前の封を復した。まもなく儀同開府長史・斉献武王丞相司馬に遷り、五十三歳で卒し、驃騎大将軍・都官尚書・瀛州刺史を贈られた。子は伯昱。弟の朏は武定中に開府中兵参軍。
- 子琳の弟・良(字は先徳)は司空行参軍・将作丞・司徒祭酒・安東将軍・南鉅鹿太守を歴任し民の誉れ高く、司徒司馬・大将軍従事中郎・中書舎人となり、武定六年に卒し、征東将軍・徐州刺史を贈られた。
史論
- 史臣は言う。穆崇は早くから太祖に仕えて誠節を著し、寵眷を受けて位は台鼎を極めた。身自ら逆謀に関わりながらついに全うされ護られたのは、明主が労臣に対して厚遇したためであり、廟庭に配享されたのもまた功を尚ぶ義であろう。観は若くして公輔の任に当たり、その器量は優れていた。顗は壮烈にして顕達し、亮は寛厚にして高位に至り、紹は虚簡の操を立て、弼は風格の名があった。世々青紫(高位高官の印綬)を絶やさず盛んであった。ただし寿は貴の身のまま終わり、羆は封を削られるにとどまった。人が礼を失えば幸いにも及ばぬ結末となる例が多い中、この一族の子孫は名位に乏しくなかった、まことに人材を得ていたと言えよう。