魏書卷二十六 列傳第十四 長孫肥
出自と経歴
長孫肥は代の人。昭成の代、十三歳で内侍に選ばれ、雅量があり果断寡黙な性格であった。太祖が独孤部・賀蘭部にあった頃から常に侍従し、太祖の深い信任を得た。登国初め莫題らと共に大将として劉顯討伐に従い、濡源で厙莫奚を撃ち賀蘭部を討って戦功を挙げた。蠕蠕討伐で大勝しその主匹候䟦を降した(蠕蠕伝参照)。衛辰・薛干部の討伐にも従い、蠕蠕の別主緼紇提の子曷多汗らを上郡で斬った。中山攻略では中領軍将軍として晉陽で遼西王農の逃亡軍を蒲泉まで追い妻子を捕らえた。中山包囲では慕容寳の和龍逃亡後、李栗と共に范陽まで追撃、研城の戍を破り千余人を捕虜とした。
中山城内で慕容普鄰が主に立つと、肥は偽って退却し普鄰軍を誘い込んで太祖の伏兵で殲滅させた。糧食不足のため中山包囲を一時解いた。慕容賀驎が普鄰を殺して自立すると、肥は七千騎で中山を襲い、賀驎の追撃を魏昌で迎え撃ち鎧騎二百を得たが流矢の重傷を負った。中山平定の功で琅邪公、のち盧郷に改爵、衛尉卿となった。中山太守仇儒が内徙を拒み趙凖を担いで妖言を流し反乱を起こした際、肥は三千騎で九門でこれを破り仇儒を生擒、凖を京師に送り市で処刑した。鎮遠将軍兖州刺史として二万の歩騎で南征し許昌まで進み、司馬徳宗の将劉該を降した。姚平の平陽侵攻に対する討伐でも肥が前鋒に選ばれ、勇将の偵察隊を撃退し柴壁を陥落させた。兖州鎮撫では河南の吏民の心を得て淮泗に威信を及ぼした。策謀に長け勇猛で毎戦先陣を切り、南は中原を平定し西は羌賊を摧いた功が最も多く、奴婢数百口・畜物千を賞賜された。のち藍田侯に降爵、天賜五年(408年)卒し諡は武、金陵に陪葬された。
子の翰は父の風があり、太祖の代に射芸で獵郎となった。太宗の外出中、元磨渾らと密かに太宗の即位を助け、散騎常侍として遺拾(諫言)を行い、平南将軍として北境を鎮め蠕蠕に畏怖された。都督北部諸軍事平北将軍真定侯を経て世祖即位後は平陽王に進んだ。蠕蠕主大檀の雲中侵攻に際し、翰は北部諸将と尉眷を率い阿伏干を柞山で破り、東平公娥清と共に長川で大檀の別動隊を破った。司徒に進み赫連昌討伐に功、廷尉道生・宗正娥清と共に前駆となり昌を高平まで追撃、蠕蠕討伐でも大檀の弟匹黎の軍を破った。清正厳明で士卒を撫し太祖に重んじられ、神䴥三年(430年)薨、太祖は自ら葬儀に臨み厚く弔った。金陵に陪葬。
子の平成は中散から南部尚書となり卒、金陵に陪葬。子の渾は中散を経て彭城鎮将となり太和中に卒。子の盛が襲爵。翰の弟受興は世祖の代に平涼討伐の功で長進子・河間太守となり卒、子の安都が襲爵し典馬令となった。受興の弟陳は羽林郎として和龍賊討伐で功を挙げ、爵五等男を賜り、殿中給事中・駕部尚書・北鎮都将を歴任、髙祖初め呉郡公・安東将軍となり興光二年(474年)卒し、呉郡王・諡恭を追贈、金陵に陪葬。子の頭は襲爵し内行長・典龍収曹となり天安初め卒、子の㧞が襲爵。陳の弟蘭は平涼討伐の功で睢陽子、北部尚書・豫州刺史を経て卒。子の烏孤が襲爵し武都鎮将、その子樂は孝静の代に金紫光禄大夫。
肥の弟亦于は太祖初め羽林郎として中原平定に従い廣平太守で卒。子の石洛は赫連昌討伐の功で樂部尚書・臨淮公・寧西将軍となり神䴥中に卒し諡は簡。子の真は平涼討伐の功で臨城子となり爵を降されて建義将軍臨淮侯、蓋吳討伐で殿中尚書、劉義隆討伐で南康公・冠軍将軍となり軍中で卒。子の呉兒は中散から武川鎮将となり太和初め卒、恒州刺史を追贈。子の長樂は事に坐して爵を失うも後に陵江将軍羽林監に至った。子の榮族は北齊で征西将軍繁昌男。呉兒の弟突は朔州長史、その子元慶は平州倉曹参軍。