魏書卷二十五 列傳第十三 長孫道生
出自と経歴
長孫道生は嵩の従子。忠厚廉謹な人柄で、太祖はその慎重さを愛して側近に置いた。太宗即位後、南統将軍冀州刺史となったが美女を献じて太宗に厳しく責められ(旧臣として罪は問われず)、世祖即位後、汝陰公・廷尉卿を経て蠕蠕討伐や赫連昌討伐(司徒長孫翰・宗正娥清と共に前駆を務め赫連国を平定)に功を挙げた。劉義隆の将到彦之・王仲徳が河南を侵した際は丹陽王太之と共に禦ぎ、檀道濟の軍を誘い出して歴城まで追撃した。司空・侍中を経て上黨王に進封、享年八十二で薨じ、諡は靖、太尉を追贈された。
道生は廉約で、三司の位にあっても質素な服装・食事を守り、熊皮の敷物を数十年使い続けたため晏嬰に比された。邸宅も質素で、出鎮中に子弟が改築したことを知ると「霍去病が匈奴未滅を理由に邸宅を持たなかった故事」を引いて叱責し取り壊させた。世祖の代、しばしば重要な議論で功を挙げ、帝は「智は崔浩の如く、廉は道生の如く」と歌工に頌させたという。晩年は妻孟氏に惑わされたとも評されるが、従父の嵩と共に三公となり世に栄とされた。
子の抗は少卿の位にあって早卒。抗の子観は勇壮で知られ、祖父道生の爵(上黨王)を襲った(異姓諸王が公に降格される中、道生の佐命の功により特例で王爵を保った)。征西大将軍仮司空として吐谷渾の拾寅を討ち、都督河西七鎮諸軍事として城邑を焼いて撤退させた。髙祖初め殿中尚書侍中として吐谷渾の再侵に対応、征南大将軍となり薨じ、諡は定。祖父道生と同じく雲中金陵に陪葬された。
子の稚(幼名冀歸、六歳で襲爵し公に降格、髙祖より稚・字承業を賜る)は聡敏で才芸に富み、七兵尚書・太常卿・右将軍を歴任、世宗の代には侯剛の子淵の岳父であった縁で撫軍大将軍領揚州刺史・鎮南大将軍都督淮南諸軍事となった。蕭衍将裴邃・虞鴻の壽春襲撃を稚の子らの勇猛(「鐡小児」と呼ばれた)で防いだが、河間王琛との統帥をめぐる対立や、鮮于脩禮の乱への対応で琛と共に大敗し除名された。正平の蜀反乱を鎮圧し復爵、尚書右僕射を経て蕭寶夤の雍州反乱討伐の行台となったが、背中の腫瘍を押して出征した(靈太后の慰労への「死して已む」との返答が知られる)。薛鳳賢・薛脩義の反乱で河東の塩池を巡る攻防となり、稚は塩税廃止の詔に対し「鹽池は府庫の要、廃すれば冀定二州分の税収を失う」と長文で反対上表した。寶夤配下の侯終徳を降し雍州を平定、雍州刺史となり、莊帝初め上黨王のち馮翊王に封じられ、のち郡公に降格、司徒公・侍中・尚書令・大行台として長安を鎮めた。前廢帝の代に太尉公録尚書事、韓陵の敗戦後は斛斯椿の要請で爾朱氏誅殺を出帝に進言、開国子に封じられたがこれを姨兄の元洪超の子惲に譲った。出帝の関中入りに随行し虎牢から長安へ移った。
稚の妻張氏は二子(子彦・子裕)を生んだのち羅氏との不倫が発覚して殺され、稚は年長のち羅氏を後妻としたが嫉妬深く、周囲との軋轢で死者が数人出たという。羅氏は紹遠・士亮・季亮の三子を生み、いずれも廉直な武人であった。稚自身は若い頃は侠気で人を殺め逃亡した経験もある。
子彦(本名儁)は父の遠征に従った功で槐里縣子に封じられ、出帝と齊獻武王(髙歡)の対立時には中軍大都督行台僕射として弘農を鎮めた。落馬で肘の骨が突き出た際、開肉して骨を削り出血しても平然としていたことから「関羽以上」と評された。子裕は衛尉少卿。