魏書卷二十四 列傳第十二 張衮
出自と経歴
張衮、字は洪龍。上谷沮陽の人。祖の翼は遼東太守、父の卓は昌黎太守。衮は郡の五官掾から太祖の代王左長史に選ばれた。蠕蠕(柔然)征討で追撃の可否を問われ、副馬三日分の食糧の有無を諸部帥に確認させた太祖の判断を「聖策」と評した。衮は常に太祖の謀議に参与し、「昔の樂毅・魏武への出仕に例え、遭遇し難い明主に仕える幸運」を人に語った。
劉顕討伐や賀訥討伐の献策、慕容寳討伐時の「羸師を装い敵の慢心を誘うべき」との献策など、いずれも太祖に容れられ功を奏した。参合の戦勝を記念する石碑の文も衮が撰した。給事黄門侍郎、太祖の中山攻めでは酈生・魯連の故事に例えて降伏勧告の書を寳に送り、寳は恐れて和龍へ奔った。中山平定後、幽州刺史・臨渭侯となり善政で知られた。天興初め京師に召還されたが、崔逞と共に司馬徳宗(東晋)の郗恢への返書で失態があり尚書令史に降格された。衮は南人の推薦(盧溥)や崔逞への好意的な評判を語ったことがのちに崔逞の失脚と絡んで非難されたが、七十を過ぎても学問を怠らず人物の誘導に努め、当代の尊敬を集めた。
永興二年(410年)病篤く、上疏して「中夏は平定したが西の羌・南の逆賊・岷蜀・遼海はなお未服、経略に努めるべき」と遺言し、まもなく享年七十二で卒した。世祖の代に旧勲を追録され太保・諡文康公を贈られた。子の温は外都大官広甯太守で卒、その子貳興は昌黎太守。温の弟楷は州主簿。楷の子誕は髙允と共に召され中書侍郎・通直散騎常侍・建威将軍・容城子となった。
衮の次子度は臨渭侯を襲い、上谷太守・武昌王師・使持節都督幽州廣陽安樂二郡諸軍事平東将軍を歴任し、崎城鎮・和龍鎮の都大将として功績を挙げ、中都大官として没し、征東大将軍冀州刺史・諡康侯を追贈。子の陵は襲爵しのち赤城典作都将で没し、子の狀は中散で没し、その子の法は太和中に伯に降格、世宗時に懐荒鎮金城戍将。陵の弟延は散騎常侍左将軍庫部尚書永寧侯。延の弟孫白澤は十一歳で母の喪に孝を尽くし、のち博学で知られ、髙宗初め中散・殿中曹給事中として寵任された。蠕蠕の侵攻に際し、和平を説く尚書僕射元目辰の意見に反対し親征を進言、顯祖はこれに従い大勝した。白澤は行雍州刺史として清廉な統治で知られ、顯祖の贓罪厳罰の詔に対しては「監臨の官の受禮を厳罰化しすぎると忠臣も懈怠する」と諫め、律令旧法に依るべきと上表しこれが容れられた。太和初め、懷州民伊祁茍初らの謀反に対し文明太后が一城皆殺しを考えた際、白澤は「一人を殺して天下を得ても仁者はしない」と諫めて容れられた。太和五年(481年)卒し、鎮南将軍相州刺史廣平公・諡簡を追贈された。
白澤の長子倫(字は天念)は護軍長史・大司農少卿・燕州大中正を歴任し、熙平中、蠕蠕主醜奴の無礼な国書への対応をめぐり、漢の対匈奴故事に倣うべきとの朝議に対し、長文の上表で歴代の対蠕蠕外交の経緯を説き、報使は不可とする自説を述べた(採用されず)。後将軍肆州刺史・燕州大中正を歴任し孝莊初め太常少卿を辞し大司農卿で卒官。倫の弟恩は奉朝請員外郎。白澤の弟庫は瀛州刺史宜陽侯。庫の長子蘭は龍驤将軍行光州事。蘭の弟修は虎都牧・駕部二曹給事中・上谷公・司農少卿・平北将軍燕州刺史。度の弟太は西将軍荆州刺史俎陽侯。大の弟那は寧遠将軍雍城鎮将。