魏書卷十七 列傳第五 眀元六王

  • 眀元皇帝は7人の男子を儲けた。杜密皇后は世祖太武皇帝を生み、大慕容夫人は樂平戾王丕・安定殤王彌を生んだ(母を欠く)。慕容夫人は樂安宣王範を生み、尹夫人は永昌荘王健・建寧王崇・新興王俊を生んだ。二王はともに母を欠く。

樂平王丕

  • 樂平王丕は若くして才幹があり世に称された。太宗は丕の器量を長とし特にこれを優遇した。泰常七年に封ぜられ車騎大将軍を拝し、のち河西・高平の諸軍を督して南秦王楊難当を討ち、軍が略陽に至ると禁令を厳粛にし通過先で私利を求めなかったため百姓は争って牛酒を贈った。難当は懼れ仇池に退いたが、諸将は「豪帥を誅さねば軍が還った後また賊となる、大軍が遠征する以上略奪せねば軍実を満たせない」と議し将士も従おうとした。当時中書侍郎高允が丕の軍事に参じており「今誅せば向化の心を傷つけ大軍撤退後に乱を招く」と諫めたため、丕はこれに従い綏懐に努め初めて帰附した者に無用の犯しをしなかった。
  • のち馮𢎞が高麗に亡命した際、世祖が送還を求めたが高麗は従わず世祖は討伐しようとしたが、丕は「和龍(前燕故地)は新たに平定されたばかり、農殖を優遇し軍実を蓄えてから図るのが上策」と上疏し、帝はこれを納れ討伐を止めた。
  • のち劉潔の事件に連座し憂いのうちに薨じた(事は劉潔伝にある)。諡は戻王。子の拔が爵を襲いだが事に坐して賜死され国除となった。丕の薨去と日者董道秀の死後、高允は「筮論」を著した。かつて眀元帝の末年、白台を起こしその高さ20余丈、樂平王はかつてこの上に登り四望するも何も見えない夢を見た。王が日者董道秀に問うと「大吉」と占い、王は黙って喜色を浮かべた。のち事が発覚し王は憂いのうちに死に道秀は棄市となった。高允は「道秀がもし六爻を推して『易に亢龍に悔いありという、窮まりて高きは民なくして善からず』と答えていれば、上は王を安んじ下は身を保ち福禄がもたらされたはずだが、本を捨てて末に従ったため咎めを招いたのも当然である」と評した。

安定王彌

  • 安定王彌は泰常七年に封ぜられ、太宗の滑臺討伐の際に京師の留守を務め、薨じて諡は殤王。子なく国除。

樂安王範

  • 樂安王範は泰常七年に封ぜられ、性は沈厚寛和で仁恕、世祖は長安が形勝の地であることから範以外に任せられぬとし、都督五州諸軍事・衞大将軍・開府儀同三司・長安鎮都大将に拝し優れた人材を選んで僚佐とさせた。範は謙恭で下を恵み推心をもって民を撫納し百姓はこれを称えた。当時秦の地は新たに寇賊の被害から立ち直りつつあり流亡者が相次いでいたため、範は簡易な統治を提言し帝はこれを納れて徭役を寛めさせ民を休息させた。のち劉潔の謀反を聞きながら告発せず、事が発覚した後、病により急逝した。
  • 長子の良は、世祖にまだ子がなかった頃「兄弟の子も我が子のようなものだ」と親しく撫養され、成長すると壮勇で知略に富み常に軍国の大計に参じた。高宗のとき王爵を襲ぎ長安鎮都大将・雍州刺史を拝し内都大官となり薨じ諡は簡王。

永昌王健

  • 永昌王健は泰常七年に封ぜられ、姿貌魁壮で弓馬に長じ兵法に通じ、常に戦功を挙げ、その才藝は陳留桓王(虔)に匹敵し智略はこれを凌いだ。世祖の赫連昌撃破に従い西は木根山まで略し和龍を討ち、健は別に建徳を攻略し、のち西河で山胡白龍の余党を平定した。世祖が蠕蠕征討で涿邪山を越えた帰途、駕に随い健に殿(しんがり)を務めさせたところ、蠕蠕の万騎が追い迫ったが健は数十騎でこれを撃ち矢は空しく放たれることなく皆命中して敵は斃れ、遂に退けて威は漠北に震動した。涼州平定にも従い健の功が最も多く、また秃髪保周を討ち破ると保周は自殺しその首は京師に伝えられた。さらに沮渠無諱を降した。病により薨じ諡は荘王。
  • 子の仁が爵を襲ぎ、驍勇で父の風があり世祖に器とされたが、のち濮陽王閭若文と共に不軌を謀ったことが発覚し賜死され国除となった。

建寧王崇

  • 建寧王崇は泰常七年に封ぜられ輔國将軍を拝し北虜討伐に功があった。高宗のとき子の麗が濟南王に封ぜられたが、のち京兆王杜元寳とともに謀反し父子ともに賜死された。

新興王俊

  • 新興王俊は泰常七年に封ぜられ鎮東大将軍を拝し、若くして弓馬に善く多才藝であったが法に触れ爵を公に削られた。俊は酒色を好み法度を越えることが多く、また母がすでに罪を得て死んでいたところにさらに爵位を削られたことから常に怨望を懐き、悖心が現れて後に事が発覚し賜死され国除となった。