魏書卷十五 列傳第三 秦明王翰
秦明王翰は昭成皇帝の第三子(?–建国十年)。若くして兵を率い征討に功を挙げ、太祖の即位後に秦王を追贈され明と諡された。子の儀は太祖の腹心として慕容垂への使者・并州平定・中山攻略などで功を立てたが、のち功を誇り穆崇と共謀して謀反を企て発覚し賜死された。儀の子孫(纂・良・幹・禎ら)は代々将軍・刺史を歴任し宗室の重鎮となった。
寔君――誅殺
- 寔君は昭成皇帝の庶長子で、生まれつき愚かで残忍だった。昭成の晩年、苻堅が行唐公苻洛らを派遣して南境に侵攻させた際、昭成は劉庫仁に石子嶺で迎え撃たせたが、昭成自身は病でこれを親率できず、諸部を率いて陰山に避難し、漠北まで退いた。高車が四方から侵掠したため再び漠南に戻ると、苻洛の軍も退いたので雲中へ帰還した。
- 昭成はかつて弟の孤に国を譲ろうとし、部の半分を孤に授けていた。孤の死後、その子の斤は地位を失って恨みを抱き、乱に乗じようとしていた。このころ献明皇帝と秦明王翰はすでに世を去り、太祖は6歳、昭成は病んでいた。慕容后所生の閼婆らは年長だったが国統は未定で、斤はこれに乗じて寔君に「帝は慕容后所生の子を立てようとしており、汝の反発を恐れて先に汝を殺そうとしている。近ごろ諸子が夜な夜な武装して汝の廬舎を巡っているのはその機を窺うものだ」と讒言した。折しも苻洛の軍が君子津にあり、夜警が厳重で諸皇子が武器を携えて廬舎の間を徘徊していたため、寔君はこれを目にして斤の言を信じ、諸皇子をことごとく殺害した。昭成もその夜に急死した。
- 諸皇子の妻や宮人は苻洛の軍に急を告げ、苻堅の将李柔・張蚝が兵を率いて内に迫り、部衆は離散した。苻堅はこれを聞いて燕鳳を呼び事情を問い、「天下の悪は一つだ」として寔君と斤を捕らえ、長安の西市で車裂きにした。
- 寔君の孫の勿期は定州刺史となり林慮侯に封ぜられて没した。子の六眷は眞定侯となった。
秦明王翰
- 秦明王翰は昭成皇帝の第三子。若くして気概があり、15歳で騎兵を率いて征討に出ることを願い出た。帝はその壮気を壮とし、二千騎を統率させた。成長すると兵を統べ、号令は厳格・信賞明確で、征討のたびに戦功を挙げた。建国十年に没し、太祖の即位後に秦王を追贈され、諡を明とされた。
儀――壮年から死まで
- 翰の子の儀は身長七尺五寸、容貌が偉美で鬚髯があり、才略に優れ、若くして剣舞・騎射に人並み外れて長じていた。太祖が賀蘭部に幸したとき侍従として出入りし、登国初年に九原公に封ぜられた。諸部を破る戦功を重ね、太祖が慕容垂を図ろうとした際は儀を派遣して形勢を観察させた。
- 垂が太祖自身が来ない理由を儀に問うと、儀は「先人以来、我らは代々北方に拠り、子孫はその旧に従い、乃祖は晋の正朔を受けて代王を称し、東は燕と兄弟の間柄にある。私が命を奉じてここに参ったのは失礼ではない」と答えた。垂はその返答に感嘆し、戯れに「わが威は四海に及ぶが、卿の主は自ら見えず、どうして失礼でないと言えるのか」と問うた。儀は「燕がもし文徳を修めず兵威によって自強しようとするならば、それは貴国の将帥の事であって私の知るところではない」と答えた。
- 帰還して復命し「垂は死ねばこそ図りうるが、今はまだできない」と述べた。太祖が色をなして問い詰めると、儀は「垂は老いており、その子の宝は弱くて威望がなく、決断力を欠く。慕容徳は才気を自負し、弱主に仕える臣ではない。内紛が起こる兆しがあり、これを計ることができる」と答えた。太祖はその通りと認め、後に儀を平原公に改封した。
- 太祖が衞辰を征伐した際、儀は別道から進んで衞辰の屍を得てその首を行宮に伝えた。太祖は大いに喜び東平公に徙封し、河北の屯田を督させ、五原から稒陽塞外まで農耕を分置させて大いに人心を得た。慕容宝が五原に侵寇した際、儀は朔方に拠ってその帰路を扼した。并州平定に及んで儀の功は多く、尚書令に遷った。
- 中山攻囲では慕容徳が敗れ、太祖は普驎の妻周氏を儀に賜り、その僮僕・財物も合わせて与えた。まもなく都督中外諸軍事・左丞相に遷り、衞王に進封された。中山平定後、儀を鄴の討伐に遣わし平定させ、太祖が代都に還る際は中山行台を置き、儀に尚書令として鎮守させたので、遠近が慕い従った。
- のち儀を丞相として召還し、高車征討にも従い、儀は別に西北から高車の別部を破り、また姚平討伐に従って戦功があり、絹布・綿・牛馬羊などを賜った。儀は膂力人に過ぎ、弓の力はほぼ十石で、陳留公虔の矟の巨大さと並び当時「衞王の弓、桓王の矟」と称された。
- 世祖(太武帝)誕生の折、太祖は夜に儀を召し「夜の呼び出しに驚かぬのか」と問うと、儀は「臣は誠を尽くして陛下に仕えており、陛下が明察くださるので安んじております。夜の詔を受けて怪しみましたが恐れはありません」と答えた。太祖は世祖誕生を告げ、儀は起って拝舞し、二人は夜通し酒を酌み交わした。翌朝群臣を召して儀に御馬・御帯・縑錦などを賜った。
- かつて上谷の侯岌・張衮・代郡の許謙らは当時名高く古今に博学で、初めて入国した際に儀が士を厚遇すると聞いて先に儀のもとを訪れ、儀は皆を礼遇して当世の務めを語り合い、山河を指し示して城邑の成敗要害を分析した。謙らは感服し「平原公には大才があり、我らは末席に連なりたい」と語り合った。太祖も儀の器量と人望を重んじ、しばしばその邸を訪ねて家人のように遇した。
- しかし儀は功を誇り寵を恃み、宜都公穆崇と共謀して反乱を企てた。武士を伏せ太祖を害そうとしたが、崇の子が伏兵の中に留め置かれ、太祖に召し出されようとした際、召し出されれば発覚すると恐れて塀を越えて事情を告げた。太祖は秘してこれを許した。天賜六年、天文に多くの異変があり、占者が「逆臣あり、伏尸流血あるべし」と占ったため、太祖はこれを忌んで公卿を多く殺し天災を鎮めようとした。儀は内心不安になり単騎で逃走したが、太祖は人を遣わして追捕させ、賜死のうえ庶人の礼で葬らせた。儀には15人の子があった。
纂・良・幹・禎・瑞・烈・觚――子孫
- 儀の子の纂は5歳のとき太祖の命で宮中で養育され、幼くして明敏で挙動に礼があり、太祖に愛され諸皇子と同様の恩を受けた。世祖即位後は定州刺史に任じ中山公に封じられ、のち王に進爵、歩挽几を賜り優遇された。纂は酒を好み佞人を愛し、政治は賄賂によって左右された。世祖はその近侍する寵臣を殺したため、纂は悔い改めて謹直となり、内大将軍を拝し清廉・簡素・慎重を称された。宗属では最年長で宗室の事は皆これに諮った。薨じて諡は簡。
- 纂の弟の良は忠篤な性格で、太宗は儀の功を追録して南陽王に封じ儀の後を継がせた。
- 良の弟の幹は聡明で沈勇、弓馬に長じ父の風があった。太宗即位後、内将軍・都将として禁中に入り、太宗が白登の東北に遊猟した際、雙鴟が上空を飛び鳴いた。太宗が左右に射させたが誰も中らず、鴟が高く飛び去ろうとしたところ、幹が自ら請うて射て二矢で雙鴟を仕留めた。太宗は嘉して御馬・弓矢・金帯を賜り、その武勇を称え軍中で「射鴟都将」と号された。世祖の南巡に従い新蔡公に進爵。高宗即位後、都官尚書を拝し没し、諡は昭。
- 幹の子の禎は諸方の言語に通じ騎射に長じた。世祖の時、司衛監として蠕蠕征討に従い、たまたま賊の別部と遭遇し寡兵で敵わなかったが、山に拠って鞍を解き馬を放って伏兵があるように見せかけ、賊はこれを疑って避けた。高祖の初め沛郡公に封ぜられ、のち南豫州刺史を拝した。太胡山の蛮族がたびたび略奪を行い、歴代の守牧は懐柔するだけだったが、禎は計略を用い新蔡・襄城の蛮の首領30余人を招き、州の西に武装を盛んに整えて酒宴を設け、まず左右の善射者20余人に射させ的中させ、次に死刑囚に軍衣を着せて射させて中らぬと責め斬った。蛮の首領らはその威に慴伏した。あらかじめ死刑囚10人に蛮の衣を着せて賊と称し、風向きから「賊が境内に侵入し西南五十里にいる」と偽って告げ、騎兵を出して捕らえさせ、10人を縛って連行させた。禎は諸蛮に「お前たちの郷里の者がこのような賊を働いた、死罪に当たるか」と問い、蛮らは皆叩頭して「万死に値する」と言ったので禎はこれを斬った。そのうえで蛮を帰し慰諭したので、諸蛮は大いに服し、以後境内に略奪はなくなった。淮南の民で相い率いて投じ来る者3千余家、これを城東の汝水のほとりに置き「帰義坊」と名付けた。
- 豫州城の豪族胡丘生が外部と通じ、禎が刺史となってから犯した事に怨みを抱き、婚姻を口実に「刺史は城中の大家を代へ移そうとしている」と偽り、城人の石道起が謀反の企てを密告した。禎は「私は人を裏切っていないのに人がなぜ叛くのか。丘生の誑言に惑わされただけだ。今すぐ捕らえれば皆が大いに恐れよう、静かに待てば必ず悔い改めよう」と語ったところ、まもなく城中300人が自ら縛って州門に赴き丘生の欺瞞の罪を訴えた。丘生は単騎で逃走し、禎は恕して問わなかった。後に都牧尚書に徴され薨じ、侍中・儀同三司を贈られ諡は簡公。8人の子があった。
- 禎の第五子の瑞は、母尹氏が妊娠中に傷を負い、昼寝の折に老翁が衣冠を整えて現れ「汝に一子を授ける、憂うるな」と告げる夢を見た。目覚めて密かに喜び、占い師に問うと大吉と出て、まもなく瑞が生まれた。禎は夢に協うとして瑞と名付け、字を天賜とした。太中大夫に至り没し、太常卿を贈られた。
- 儀の弟の烈は剛毅で武勇と智略があった。元紹の反逆の際、百官の誰もあえて声を上げなかったが、烈だけが外出中と偽って紹に付き従い、太宗を捕らえると募って紹を信用させ、自ら延秋門から出て太宗を迎え立てた。この功により陰平王に進爵し、薨じて諡は熹。子の裘が襲爵した。
- 烈の弟の觚は勇略と胆気があり、若くして兄儀と共に太祖の侍衛として左右に仕え、慕容垂への使者となった。垂の晩年、政は臣下の手にあり、觚を留めて賄賂を求めようとしたが太祖はこれを拒絶した。觚は左右数十騎を率いて衛将を殺し脱出しようとしたが、慕容宝に捕らえられ中山に連行された。垂は觚をますます厚遇し、觚は学業に専念して経書を数十万言誦読し、国人にも重んじられた。
- 太祖が中山を討った際、慕容普驎が自立するとその衆心を固めるため觚を殺害した。太祖はこれを聞いて哀しみ悲嘆し、中山平定後に普驎の柩を暴いてその屍を斬り、觚殺害を議した傅髙霸・程同らを皆五族まで滅ぼし大刃で切り刻んだ。その後觚を改葬し秦愍王を追諡し、子の虁を豫章王に封じ觚の後を継がせた。