魏書卷十四 列傳第二 高涼王孤
高涼王孤は平文帝の第四子(?–烈帝前元年頃)。烈帝崩後、群臣に推されながらも兄の子である昭成帝を立てるべきとして自ら退き、鄴へ人質として赴き石虎に国の半分を得させた。その譲国の功により太祖の代に高涼王を追封され神武と諡された。子孫は代々高涼王・郡公を世襲し、六世の孫の鷙は尒朱栄の腹心として権勢を振るった。
上谷公紇羅――神元帝の曾孫
- 太祖に従い独孤如賀蘭部から旧戸三百家を招集し、弟の建と共に賀訥に太祖を主に推すよう勧めた。太祖の即位後は左右を翼衛し征伐に従い大功があった。擁立の功で特に優賞され、太祖の帝位即位に伴い弟・建と同日に公に叙爵。
- 子の題は雄武で知られ襄城公を賜り、中山征討で新たに下した諸郡の撫慰にあたり進んで王に叙爵されたが、義台で慕容驎を撃つ際に流矢を受け、太医令・陰光の治療が拙かったため薨じ、陰光は伏法された。子の悉は爵を襄陽公に降げられて卒し、襄城王を追贈された。
建徳公嬰文――神元帝の後裔
- 若くして明弁で決断力に富み太宗に器とされ、詔命の出納に当たり機要を執った。世祖の即位後、護東夷校尉を拝し建徳公に進爵、遼西を鎮め卒した。
真定侯陸――神元帝の後裔
- 世祖の代、武功により散騎常侍を拝し真定侯を賜り卒した。曾孫の陸軌(字は法寄)は洛陽令に遷ったが刻薄な政で人を死に至らしめることが多く識者に非難された。孝静帝の代、鄴宮の造営で営構使となり徐州刺史に除せられたが、風望に乏しく学識もなく世に軽んじられ州で卒した。
武陵侯因・長楽王壽楽(章帝の後裔)
- 因は太祖に従い中原を平定し曲逆侯に封じられ、世祖の代に武陵侯と改爵された。壽楽は選部尚書を経て南安王から長楽王に改封され、高宗の即位に援立の功があり太宰・大都督中外諸軍・録尚書事を拝したが、功を誇り尚書令・長孫渇侯と権を争い、ともに伏法された。
望都公頽――昭帝の後裔
- 太祖に従い中原を平定し望都侯を賜った。世祖はその容儀を好み蠕蠕へ左昭儀を迎えに遣わし、公に進爵して卒した。
曲陽侯素延――桓帝の後裔
- 小統として太祖の諸部征討に従い并州を平定して刺史となった。太祖が柏肆で危難に遭った際、并州守将・封竇真が逆らったため素延がこれを斬った。太祖は新附の民を懐柔しようとしていたが素延の殺戮は過ぎており免官された。中山平定後、幽州刺史となったが豪奢放逸で上谷太守に左遷され、後に曲陽侯を賜った。太祖が黄老を尊び質素を旨としたのに対し素延の奢侈は度を過ぎ、太祖はこれを深く憎み罪を重ねさせた末に賜死した。
順陽公郁――桓帝の後裔
- 若くして忠正亢直で羽林中郎として内侍し高宗の東巡に功あり順陽公を賜った。高宗崩御後、乙渾が専権し内外を隔絶させ百官が震恐する中、郁は殿中衛士数百人を率いて渾を誅しようとしたが、渾は諒闇を理由に言い逃れ顕祖を奉じて臨朝した。後に郁は再び渾殺害を謀るが露見し渾に誅された。顕祖はその忠正を録し順陽王を追贈、簡と諡した。
宜都王目辰――桓帝の後裔
- 羽林郎として太祖の南伐に従い長江に至った。高宗即位後、功労により侍中・尚書左僕射に進み南平公に封じられた。乙渾の謀乱に際し兄・郁と共に渾殺害を図るが露見し誅されかけたが逃隠して免れた。顕祖の伝位に定策の勲があり、高祖の即位後、司徒に遷り宜都王・雍州刺史として長安を鎮めた。性は亢直耿介で朋党を作らず朝臣に畏憚されたが財利を好み賄で政を成し、罪により伏法され爵を除かれた。
穆帝の長子・六脩
- 若くして凶悖であった。穆帝五年、六脩は前鋒として輔相・衛雄・范班や姫澹らと共に劉琨を救援。晋の懐帝が劉聡に捕らわれた際も六脩は桓帝の子・普根と共に精騎を率い劉琨を援けた。穆帝は少子・比延を寵愛して後継にしようとし、六脩を新平城に出し母を黜けた。六脩の駿馬・驊騮を穆帝が取り上げ比延に与えようとし、比延に拝礼するよう命じた六脩がこれに従わなかったため、穆帝は比延を自らの歩輦に座らせ出遊させた。六脩は父の姿と誤認し伏拝したが実は比延と知り、恥じ怒って去った。召しに応じなかったため穆帝は怒って討伐したが敗れ、六脩は比延を殺した。穆帝は微行して逃れたが賤しい婦人に見つかり暴崩した。普根が外にあって難を聞き軍を率いて赴き六脩を滅ぼした。
吉陽男比干――太祖の族弟
- 司衛監として白澗の丁零を討ち功により吉陽男を賜り、後に南道都将となり戦没した。
江夏公呂――太祖の族弟
- 世祖の涼州平定に従い功により江夏公に封じられ外都大官として朝政を委ねられ重んじられた。卒して江夏王を追贈され金陵に陪葬された。
平文帝の第四子
- 才芸・志略に富んだ。烈帝の前元年、国に内難があり昭成帝は襄国にあったが、烈帝は臨終に昭成帝を迎え立てることを遺命した。烈帝の崩後、羣臣は昭成帝の帰還までの間に変が生ずることを恐れ、次弟の屈が剛猛で御しにくいことから、寛和柔順な孤を立てようとしたが、孤は「兄が長であり自分が越次で大業に処することはできぬ」と鄴へ自ら赴き身を人質として石虎に願い出た。石虎は義とし従い、昭成帝の即位後、国の半分を孤に分け与えた。孤の薨後、子の斤は職を失い怒って寔君の逆謀に加わり長安で死んだ。太祖の代、孤の勲功により高涼王を追封し神武と諡した。
高涼王家の系譜
- 斤の子・真楽はしばしば戦功をたて祖父の封を襲ぎ、太宗の初め平陽王に改封され薨じた。子の礼が本爵の高涼王を襲ぎ薨じ懿王と諡された。礼の子・那は爵を襲ぎ中都大官を拝し驍猛で攻戦に長じたが正平初め事に坐し伏法。顕祖は那の功を追い子の紇に紹封させたが薨じた。紇の子・大曹は性愿直で、高祖の代に太祖の子孫でない諸王は例により公に降爵されたが、大曹は先世が国を譲った功と真楽の勲を重んじ太原郡公に改封された。卒して子がなく国は除かれたが、世宗は大曹の従兄の子・洪威に紹封させた。洪威の子・恭謙は学を好み潁川太守として政績があったが、孝静帝の初め潁川で関西に呼応する反乱に加わり斉献武王の将に討平された。
- 礼の弟・陵は世祖より襄邑男を賜り子に進爵し卒した。子の瓌は柔玄鎮司馬。瓌の子・鷙(字は孔雀)は容貌魁偉で腰帯十囲、羽林隊仗副となり、高祖末年の征討の功で晋陽男を賜り累進して領軍畿部都督となった。武泰元年、尒朱栄が河陰で朝士を殺戮した際、鷙は栄と共に高塚に登りこれを見物し、以後栄と結んだ。元顥の逼迫に際し北へ帝を迎える駕に従い河内で入城を勧めた者を退け栄の援軍を待つよう進言し、車騎将軍・華山王に封じられた。荘帝が尒朱栄を殺し尒朱兆が乱を起こすと、帝は親征しようとしたが鷙は密かに兆と通じ「黄河は万仭、たやすく渡れぬ」と諫めて帝を安逸させ、兆が宮に入る際にも衛兵を止めさせた。京邑が破れたのは鷙の謀によるといわれる。孝静帝の初め大司馬・侍中を加えられた。武芸を持ちながら訥言少語、暑月にも衣冠を解かなかった。侍中・高岳の席で咸陽王坦に酒を強いられ侮られても答えず、坦が「孔雀(鷙)老いた武官がなぜ王となれたか」と嘲ると「元禧(謀反人)の首を斬ったからだ」と即答し座を驚かせた。興和三年薨じ仮黄鉞・尚書令・司徒公を贈られた。子の大器は爵を襲いだが後に元瑾と共に斉文襄王の暗殺を謀り誅された。
孤の孫・度とその子孫
- 太祖の初め松滋侯を賜り比部尚書となり卒した。子の乙斤は襄陽侯を襲ぎ、顕祖に旧齒を重んじられ外都大官を拝し優遇された。子の平(字は楚国)は松滋侯を世襲し軍功で艾陵男を賜り卒した。子の萇は高祖の代に松滋侯を襲いだが例により降爵し艾陵伯を賜った。萇は剛毅な性で吉慶事にも決して笑わず、代尹として留鎮した際も懐朔鎮都大将として賜った酒を拝飲しつつ顔色を変えなかった。高祖が「一生笑わぬと聞くが今は山を隔てるので朕のために笑ってくれ」と求めても笑わず、高祖は「五行の気にも入らぬところがあるように、六合の間にも何事も起こりうる」と述べ、左右は皆扼腕して大笑した。世宗の代、北中郎将・河内太守として河橋の船絙路が狭く不便で秋の水嵩で毎年壊れることを憂い、船路を広げ空車には石を積ませて岸橋を築き往来を便利にし公私に頼られた。度支尚書・侍中・雍州刺史を歴任し卒し成と諡された。萇は中年以後、官位が高まると尊大になり閨門に礼なく兄弟と睦まじくなく貪虐であったと世に卑しめられた。
- 萇の子・子華(字は伏栄)は爵を襲ぎ孝荘帝の初め斉州刺史となった。邢杲の乱で人心が不安な中、豪右を撫集し境内を安定させたが、性は褊急で急に及べば口を慎まず親友の長史・鄭子湛を捶撃し辞去させるほどであった。悔いても改まらず、清廉を装わず贈物も多くを辞し少なく受けたため人に嫌われず、獄訟には仁恕を加え斉の民に頌徳碑を建てられた。母・房氏が親戚宅で食事し夜に大吐した際、毒に中ったと疑い自ら吐瀉物を掬い食べたところ母は安堵したという。孝静帝の初め南兗州刺史となり、弟・子思が関西との通使の疑いで右衛将軍・郭瓊に捕らわれた際、子思は「速やかに殺せ、なぜ久しく国士を拘束するか」と言い、子華は「お前の粗忽のせいでこうなった」と泣き崩れ、子思は「君の体たらくが悪い」と応じ、まもなく共に門下外省で死んだ。
- 子思(字は衆念)は剛暴な性で忠烈を自任した。元天穆が権を執った折、その親族として御史中尉に薦められ、御史台の礼制をめぐる旧格の適用を巡り兼尚書僕射・元順と激しく論争し、詔で尚書に検討させたが天穆の怒りを買い留め置かれた。元顥の敗後、安定県子に封じられ孝静帝の代に侍中として死んだ。
- 萇の弟・珍(字は金省)は艾陵男を襲ぎ、世宗の代に高肇に取り入り寵愛され、彭城王勰の死に際し壮士を率いて殺害を実行した。後に尚書左僕射で卒した。
- 平の弟・長生は游騎撃将軍で卒し、子の天穆が貴顕になったことで孝荘帝の代に司空を追贈された。
元天穆――高涼王孤の後裔、尒朱栄の盟友
- 性は和厚で容貌美しく善射で知られ、年二十で員外郎から起家した。六鎮の乱で尚書令・李崇や広陽王深の北討にあたり慰労の使者として秀容を通った際、尒朱栄の法令の整然たる将領ぶりを見て深く結び兄弟の約を結んだ。行台の要請は朝廷に許されず別将として秀容に赴き、栄の腹心として并州刺史となった。栄が洛陽へ赴くと天穆は留守として策謀に参画し援軍を担った。
- 荘帝即位後、栄との縁で太尉・上党王に封じられ京師に召された。葛栄討伐では前軍都督として赴き、栄が葛栄を擒えると邑を通算三万戸に増された。監修国史・録尚書事・開府・世襲并州刺史も兼ねた。邢杲の乱では、河間太守の任を望んだ杲が従子・子瑶に先を越されたことを恨み反乱を起こし、十万を超す衆で村塢を劫掠したため(斉人はこれを「楡榆賊」と呼んだ)、天穆と斉献武王が討ち大破し杲は降って斬られ、天穆は邑一万戸を増された。
- 元顥が滎陽を陥落させると、天穆は荘帝の北巡を知り自ら河内で車駕に会し、尒朱栄が炎暑を理由に班師を求めたのを固く執って阻んだ。荘帝の還宮後、太宰・羽葆鼓吹を加えられ邑通算七万戸となった。天穆は疎属で本来の徳望はなかったが尒朱氏の権勢に依り朝野を圧し、王公以下が毎朝門前に列し財貨珍宝が積まれたが、性は寛柔で人に容れられ、あまり憎まれなかった。荘帝は栄の党として天穆を表面上厚遇し、天穆と栄は互いに深く頼り合い、栄は兄の礼で天穆に接し、尒朱世隆らも天穆を畏憚した。天穆が栄に世隆の過失を語ると栄は世隆を杖罰したほどで、荘帝は内心これを畏悪した。荘帝が栄を殺した際、天穆も同時に殺された。前廃帝の初め、丞相・柱国大将軍・雍州刺史・仮黄鉞を追贈され武昭と諡された。子の儼は爵を襲ぎ美しい才貌で都官尚書となったが、斉の受禅に召しがあった際、病と称して恐怖のうちに卒した。
西河公敦――平文帝の曾孫
- 太祖の初め征討に従い名は諸将に冠絶し、中山征討にも従い所向無敵であった。太宗の代に中都大官を拝し、世祖の代に西河公に進爵され寵遇厚く卒した。子の撥が爵を襲いだ。
司徒石――平文帝の玄孫
- 忠勇で膽略に富み騎射に長じ、世祖の南討に従い瓜歩に至った。尚書令・雍州刺史、比部侍郎・華州刺史を経て征南大将軍に至り卒し司徒公を追贈された。