魏書卷三 帝紀第三 太宗紀

太宗明元皇帝(諱嗣、392–423年)。太祖道武皇帝の長子。天賜六年(409年)、清河王紹の乱を鎮めて即位した。劉裕による東晋簒奪・宋建国という江南の政変に対応しつつ、馮跋(北燕)・赫連氏(夏)と角逐し、劉宋の虎牢・洛陽を攻略して河南に領域を広げた。太祖の武断を受け継ぎつつ内治にも意を用いた。

年表(10件)
  • 永興二年太祖宣武皇帝を盛楽の金陵に葬る
  • 泰常二年司馬徳文が死に劉裕が帝位を簒奪し宋と号する
  • 泰常三年長孫道生らを遣わし馮跋の龍城を襲い民万余家を徙す
  • 泰常六年長城を長川の南に築く(赤城〜五原、延袤二千余里)
  • 泰常七年疾により皇太子(世祖)に臨朝聴政を命じ泰平王が政を摂す
  • 泰常七年奚斤らを南討に遣わし劉義符(宋)討伐を開始
  • 泰常八年虎牢を攻略し劉宋の守将毛徳祖を捕らえる
  • 泰常八年西宮で崩じる(三十二歳)
  • 永興元年409年清河王紹の逆を誅して即位、大赦改元
  • 泰常元年416年叔孫建らが山胡劉虎を大破

出自と生い立ち

  • 太宗明元皇帝(諱嗣)は太祖の長子である。母は劉貴人。登国七年、雲中宮で生まれた。太祖は晩年に子を得たことを喜び天下に大赦した。帝は明叡・寛毅で礼にかなわぬことをせず、太祖はこれを大いに奇とした。天興六年、斉王に封じられ相国を拝し車騎大将軍を加えられた。かつて帝の母劉貴人は太祖により死を賜わった際、太祖は帝に「昔、漢の武帝はその子を立てる際にその母を殺し、婦人が後に国政に関わり外家が乱を起こすことのないようにした。汝は統を継ぐべきゆえ、私は遠く漢武帝に倣い長久の計とするのだ」と告げた。帝はもとより純孝であり哀泣して自らを抑えられなかった。太祖はこれに怒り、帝は宮に還っても哀しみが止まらず日夜号泣した。太祖はこれを知り再び召したが、帝が入ろうとすると左右は「孝子が父に事えるに、小杖は受けるが大杖は避けるものです。今、陛下の怒りは激しく、入れば不測の事態もありえ、帝を不義に陥れることになりましょう。しばらく出て怒りが解けるのを待って進むのが良いでしょう」と諫め、帝は恐れてこれに従い、遊行して外に隠れた。
  • 天賜六年、冬十月、清河王紹が逆を起こし太祖が崩じた。帝は入って紹を誅し、壬申、皇帝に即位し大赦して年を改め永興元年(409年)とした。

永興年間

  • 永興元年、亡母宣穆皇后を追尊した。公卿大臣で先に罷免され朝政に与らなかった者をことごとく復用した。南平公長孫嵩・北新侯安同に民訟を対理させ、賢を簡び能を任じ倫を整えた。閏十月丁亥、朱提王悦が反を謀り死を賜った。詔して都兵将軍山陽侯奚斤に諸州を巡行させ民の疾苦を問わせ窮乏を撫恤させた。十二月戊戌、衛王儀の子良を南陽王に封じ、陰平公元烈を王に進爵し、高涼王楽真を平陽王に改封した。己亥、帝は初めて西宮に居し天文殿に御した。蠕蠕が塞を犯した。この歳、乞伏乾帰は金城に拠り泰王を自称し、高雲は海夷馮跋に滅ぼされ、跋は僭号し大燕天王を自称した。
  • 二年、春正月甲寅朔、詔して南平公長孫嵩らに蠕蠕を北伐させた。平陽の民黄苗らは汾水に依り自固し姚興の官号を受けていたが、并州刺史元六頭がこれを討平した。二月癸未朔、詔して将軍于栗磾に歩騎一万を率い平陽を鎮めさせた。夏五月、長孫嵩らは大漠より還ったが蠕蠕は牛川で追囲した。壬申、帝は自ら蠕蠕を北伐したが、聞いて遁走したため車駕は参合陂に還幸した。秋七月丁巳、陂の西に馬射台を立て武を講じ戦を教えた。乙丑、北伐より至った。八月、章武の民劉牙が衆を集めて反したが、山陽侯奚斤がこれを討平した。九月甲寅、太祖宣武皇帝を盛楽の金陵に葬った。冬十二月辛巳、詔して将軍周観に衆を率いさせ西河の離石鎮に赴かせ山胡を撫させた。この歳、司馬徳宗の将劉裕が慕容超を広固で滅ぼした。
  • 三年、春二月戊戌、詔して曰く、「衣食が足りて栄辱を知る。人は飢寒が切迫すれば朝夕の不安のみを恐れ、温飽を急ぐばかりで仁義のことに及ぶ暇はない。王教が多く違えるのはこのためである。婦が耕し織って内外相成らしめずしてどうして家給人足たり得ようか。宮人のうち当職でない者及び執作伎巧の者を簡び、その余はすべて出して鰥民に配せ」と。己亥、詔して北新侯安同らに持節して并・定二州及び諸山居の雑胡・丁零を循行させ疾苦を問わせ守宰の不法を察挙させ、寃窮失職・彊弱相陵・孤寒で自存できぬ者があれば事を聞かせた。昌黎・遼東の民二千余家が内属した。三月己未、侍臣に常に剣を帯びさせた。夏四月戊寅、河東の蜀民黄思・郭綜らがその営部七百余家を率いて内属した。五月丁卯、車駕は盛楽の金陵に謁し、己巳、昌黎王慕容伯児が反を謀り伏誅した。六月、姚興が使者を遣わして来聘し、西河の胡張賢らがその営部を率いて内附した。秋七月戊申、衛士に酺を三日賜い布帛を各差で賜った。辛酉、附国の大人に錦罽・衣服を各差で賜った。八月戊寅、詔して将軍束州侯尉古真に兵五千を統べさせ西境の太洛城を鎮めさせた。冬十二月甲戌、蠕蠕の斛律の宗党吐觝于ら百余人が内属した。甲午、詔して南平公長孫嵩・任城公嵇抜・白馬侯崔玄伯らに朝堂に坐して囚徒を録決させ平当を務めさせた。
  • 四年、春二月癸未、虎圏に登り虎を射て南平公長孫嵩らに布帛を各差で賜った。夏四月乙未、西宮で群臣を宴し各々直言を献じさせた。秋七月己巳朔、東巡し四廂大将を置き、また十二時に放って十二小将を置き、山陽侯奚斤・元城侯元屈を左右丞相に行わせた。己卯、石会山で大獮した。戊子、去畿陂に至り漁を観た。庚寅、濡源に至り西巡して北部諸落に幸し繒帛を賜った。八月庚戌、車駕は宮に還り、壬子、西宮の板殿に幸し群臣将吏を大饗し田猟の獲物を賜い、民に三日の大酺を命じた。乙卯、王公以下宿衛将士に布帛を各差で賜った。冬十一月乙丑、宗室の近属南陽王良以下緦麻の親に至るまで布帛を各差で賜った。十二月丁巳、車駕は北巡し長城に至って還った。この年、乞伏乾帰はその兄子公府に殺され子の熾磐が立ち、沮渠蒙遜は自ら河西王を称した。
  • 五年、春正月己巳、畿内の男子十二歳以上を大閲し悉く集めた。己卯、西宮に幸した。頞抜の大渠帥四十余人が闕に詣で貢を奉じ、繒帛・錦罽を各差で賜った。乙酉、詔して諸州の六十戸ごとに戎馬一匹を出させた。庚寅、東郊で大閲し将帥を部署した。山陽侯奚斤を前軍とし衆三万、陽平王熙ら十二将に各一万騎とし、帝は白登に臨み自ら校覧した。二月戊申、陽平王熙及び諸王公侯将士に布帛を各差で賜った。庚戌、高柳川に幸し、甲寅、車駕は宮に還った。癸丑、北苑に魚池を穿った。庚午、姚興が使者を遣わして来聘し、詔して使者を分遣し儁逸を求めさせた。豪門彊族に州閭に推される者や文武才幹があり臨疑能決の者、あるいは先賢の世胄で徳行清美・学優義博で人師となし得る者は、それぞれ京師に詣で才に随って敍用させ庶政を賛けさせようとした。夏四月、河東の民薛相が部内を率いて内属した。乙巳、上党の民労聡・士臻らが群れをなして盗となり太守・令長を殺して相率いて外奔した。乙卯、車駕は西巡した。詔して前軍奚斤らに先に跋那山の越勒部を討たせた。夏五月乙亥、雲中の旧宮の大室に行幸した。丙子、天下に大赦した。西河の張外は興建王紹を建てその罪の重さから自ら解散できず、庚戌、元城侯元屈らを遣わし衆三千で并州を鎮めさせた。乙卯、詔して会稽公劉潔・永安侯魏勤らに衆三千を率いさせ西河を鎮めさせた。六月、西は五原に幸し骨羅山で校猟し獣十万を獲た。濩沢の劉逸は自ら征東将軍三巴王を号し王紹のために官属を置き建興郡を攻逼したが、元屈らがこれを討平した。秋七月己巳、薄山に還幸し、帝は太祖が遊幸し刻石して徳を頌した所に登り、その傍らに石壇を起こして饗した。従者に山下で大酺を賜った。奚斤らは越勒倍泥の部落を跋那山西で破り馬五万匹・牛二十万頭を獲て二万余家を大寧に徙し口を計って田を受けさせた。河西の胡曹龍・張大頭らはそれぞれ部を領し衆二万を擁して蒲子に入り張外を研子塁外に脅かしたが、恐れて牛酒を給い馬を殺して盟誓し龍を大単于に推し美女・良馬を献じた。丙戌、車駕は大室より西南に諸部落を巡り渠帥に繒帛を各差で賜り、南は定襄の大落城に次り東は七嶺山を踰え善無川で田した。八月癸卯、車駕は宮に還り、癸丑、奚斤らは班師した。甲寅、帝は白登に臨み降民を観閲した。曹龍は降り張外を執送し斬った。辛未、征還した将士に牛馬奴婢を各差で賜った。新民を大寧川に置き農器を給し口を計って田を受けさせた。丁丑、犲山宮に幸し、癸未、車駕は宮に還った。冬十月丁巳、将軍元屈・会稽公劉潔・永安侯魏勤らが吐京の叛胡を撃ち利あらず、潔は傷を負い勤は死した。十一月癸酉、西宮で大饗し、姚興が使者を遣わして朝貢し女を進めることを願い、帝はこれを許した。
  • 神瑞元年(414年)、春正月辛酉、禎瑞が頻りに集まったため大赦改元した。辛巳、繁畤に幸し王公以下士卒百工に布帛を各差で賜った。二月戊戌、車駕は宮に還った。この月、赫連屈丐が河東の蒲子に侵入し吏民を殺掠したが、三城護軍張昌らが要撃してこれを走らせた。庚戌、犲山宮に幸した。西河の胡曹成・吐京の民劉初原が屈丐の吐京護軍及びその守備三百余人を攻殺した。乙卯、豊宮を平城の東北に起こした。夏五月辛酉、車駕は宮に還った。六月、司馬徳宗の冠軍将軍太山太守劉研の弟輔国将軍領東平太守陽平の趙鸞、広威将軍平昌太守羅卓、斗城屠各帥張文興らが流民七千余家を率いて内属した。河西の胡酋劉遮・劉退孤は部落等万余家を率いて渡河し内属した。戊申、犲山宮に幸し、丁亥、車駕は宮に還った。秋八月戊子、詔して馬邑侯元陋孫を姚興に使わし、辛丑、謁者悦力延を遣わして蠕蠕を撫慰し于什門に馮跋を招諭させ、詔して平南将軍相州刺史尉古真に司馬徳宗の太尉劉裕と相聞させ、博士王諒に平南参軍を仮させ命を将わせた。姚興が使者を遣わして来聘した。冬十一月壬午、詔して使者に諸州を巡行させ守宰の資財が自家の齎ではないものを校閲し悉く簿して贓とし、守宰の不法を民が闕に告言することを聴すよう詔した。十二月丙戌朔、蠕蠕が塞を犯し、丙申、帝は蠕蠕を北伐した。河内人司馬順宰は自ら晋王を号したが太守が討捕できなかった。この歳、禿髪傉檀は乞伏熾磐に滅ぼされた。
  • 二年、春正月丙辰、北伐より至り従征の将士に布帛を各差で賜った。二月丁亥、西宮で大饗し、歳首に朝じた附国の大渠帥に繒帛・金罽を各差で賜った。司馬徳宗の琅邪太守劉朗は二千余家を率いて内属した。庚子、河西の胡劉雲らが数万戸を率いて内附した。甲辰、太祖廟を白登の西に立てた。三月、詔して「刺史守宰は率ね逋慢多く、前後督罰を加えてもなお悛改しない。今年の貲調に懸違する者は家財を出させてこれに充て、民から徴発することを聴さぬ」とした。河西の饑胡が上党に屯聚し白亜栗斯を盟主に推し大将軍と号し上党で反し単于を自称し建平元年と称した。司馬順宰がその謀主となった。夏四月、詔して将軍公孫表ら五将にこれを討たせた。河南の流民二千余家が内属し、衆は栗斯を廃して劉虎を立て率善王を号し、司馬徳宗が使者を遣わして朝貢した。己卯、車駕は北巡した。五月丁亥、参合の東に次り大寧に幸した。丁未、四岬山で田した。六月戊午、去畿陂に幸し漁を観た。辛酉、濡源に次り蜯台を築き頹牛山で白熊を射て獲た。丁卯、赤城に幸し親しく長老を見て民の疾苦を問い租を一年復した。南は石亭に次り、上谷に幸し百年(の高齢者)を問い賢俊を訪ね田租の半分を復した。壬申、涿鹿に幸し橋山に登り温泉を観て使者に太牢をもって黄帝廟を祀らせ、広寧に至り歴山に登り舜廟を祭った。秋七月、宮に還り通過した所の田租を半分復した。九月、河南の流民が前後三千余家内属し、京師の民が飢え山東に出て就食することを聴した。冬十月壬子、姚興は散騎常侍東武侯姚敞・尚書姚泰を遣わしその西平公主を送り、帝は后の礼をもってこれを納れた。辛酉、沮洳城に行幸し、癸亥、車駕は宮に還った。丙寅、詔して「古人に言あり、百姓が足れば君に余りありという。民が富んで国が貧しいことはない。頃来、しばしば霜旱に遭い年穀は登らず百姓は飢寒し自存できぬ者が甚だ多い。布帛倉穀を出して貧窮を賑せ」と。十一月丁亥、材山宮に幸し、庚子、車駕は宮に還った。
  • 泰常元年(416年)、春正月甲申、犲山宮に行幸し、戊子、車駕は宮に還った。三月己丑、長楽王処文が薨じた。常山の民霍季は名が図讖に載ると自称し黒石を持って天賜の玉印だと誑惑し党を集め山に入り盗となったが、州郡がこれを捕斬した。夏四月壬子、大赦改元した。庚申、河間王脩が薨じた。六月丁巳、車駕は北巡した。秋七月甲申、帝は白鹿陂より西に大獮を牛川で行い、釜山に登り殷繁水に臨み南は九十九泉を観た。戊戌、車駕は宮に還った。九月戊午、前并州刺史叔孫建らが山胡劉虎を大破し、虎は渡河して東走し陳留に至って従人に殺された。司馬順宰らはみな死んだ。司馬徳宗の相劉裕は河を泝って姚泓を伐ち、その部将王仲徳を前鋒として陸道より梁城に至らせ、兖州刺史尉建は畏懦して州を棄て北渡し、王仲徳はついに滑台に入った。詔して将軍叔孫建らに渡河させ滑台に威を曜し、城下で尉建を斬った。冬十月壬戌、犲山宮に幸した。徒何部落の庫傉官斌は先に降り後に再び馮跋に叛帰したが、驍騎将軍延普が濡水を渡って討撃し大破し、斌及び馮跋の幽州刺史漁陽公庫傉官昌・征北将軍関内侯庫傉官提らの首を斬り、庫傉官の女を生擒して京師に送り、幽州は平定された。十一月甲戌、車駕は宮に還り蓬台を北苑に築いた。十二月、南陽王良が薨じた。この歳、姚興が卒し子の泓が立った。
  • 二年、春二月丙午、詔して「九州の民は京邑から遠く隔たり時に壅滞がある。守宰は至るも聞かせない。今、東作が興ろうとしているのに貧窮で農務を失う者があるかもしれぬ。使者を天下に遣わし諸州を省み民風俗を観察し民の疾苦を問い守宰の治行を察し、諸々自ら申し出られない者はみな聞かせよ」と。辛酉、司馬徳宗の滎陽守将傅洪は使者を叔孫建に遣わし虎牢をもって降ることを請い軍の接応を求めた。徳宗の譙王司馬文思は使者王良を遣わし闕に上書し劉裕討伐を請うた。詔して司徒長孫嵩に諸軍を率いさせ劉裕を畔城で邀撃させ、勝負があったが帝は詔して諸軍を止め克たなかった。夏四月丁未、榆山の丁零翟蜀はその営部を率いて劉裕に使者を通じ、馮跋の使者王特児らは司馬徳宗に通じたが、章武太守が特児らを捕らえ京師に囚送した。丁巳、高柳に幸し、壬戌、車駕は宮に還った。五月、汝南の民胡譁らが万余家相率いて内属した。乙未、司馬徳宗の斉郡太守王懿が来降した。車駕は西巡し雲中に至り済河して大漠で田した。秋七月、城南に白台を作り高さ二十丈とした。司馬順之は常山に入り流言で衆を惑わし、天帝の命を受け年二十五で人君となるべしと称し封龍山に党を集めたが、趙郡の大盗趙徳がこれを捕らえて京師に送り斬った。八月、劉裕が姚泓を滅ぼした。九月癸酉、司馬徳宗の平西将軍荊州刺史司馬休之の子譙王文思・章武王の子司馬国璠・司馬道賜・輔国将軍温楷・竟陵内史魯軌・荊州治中韓延之・殷約・平西参軍桓謐・桓璲及び桓温の孫道子、渤海の刁雍、陳郡の袁式ら数百人が来降した。姚泓の匈奴鎮将姚成都は弟の和都と鎮を挙げて来降した。冬十月己酉、詔して司徒長孫嵩らを京師に還らせ叔孫建を遣わして鄴を鎮めさせた。癸丑、豫章王夔が薨じた。十一月、司徒長孫嵩らの諸軍は楽平に至り、詔して嵩に娥清・周幾らを遣わして叔孫建とともに西山の丁零翟蜀・洛支らを討たせことごとく滅ぼして還った。諸州の租税を復した。十二月己酉、詔して河東・河内で姚泓の子弟が民間に播越し送致できる者があれば賞するとした。庚申、西山で田し、癸亥、車駕は宮に還った。氐豪徐騃奴・斉元子らは部落三万を擁して雍で使者を遣わし内附し、詔して将軍王洛生及び河内太守楊声らに西行してこれに応じさせた。壬申、大寧の長川に幸した。姚泓の尚書東武侯姚敞、敞の弟鎮遠将軍僧光、右将軍姚定世は洛陽より来奔した。この年、李暠が卒し子の歆が立ち使者を遣わして朝貢した。
  • 三年、春正月丁酉朔、帝は長川より詔して護高車中郎将薛繁に高車丁零十二部の大人衆を率い北は弱水に至るまで略させ、降る者二千余人、牛馬二万余頭を獲た。河東の胡蜀五千余家が相率いて内属した。三月、司馬徳宗が使者を遣わして来貢し、庚戌、西宮に幸した。范陽が前年水害に遭ったため租税を復した。夏四月己巳、冀・定・幽三州の徒何を京師に徙した。五月丙午、詔して叔孫建に広阿を鎮めさせ、壬子、車駕は東巡し濡源及び丼松に至り、征東将軍長孫道生・給事黄門侍郎奚観を遣わし精騎二万で馮跋を襲わせた。また驍騎将軍延普に幽州より北の遼西に趨かせ声勢とした。帝は突門嶺よりこれを待った。道生は龍城に至りその民万余家を徙して還った。六月乙酉、車駕は西返し、秋七月戊午、京師に至った。八月、雁門・河内で大雨水があり租税を復した。九月甲寅、詔して諸州に民租戸五十石を定・相・冀三州に積ませた。冬十月戊辰、宮を西苑に築いた。この歳、司馬徳宗が卒し弟の徳文が僭立し、赫連屈丐は皇帝を僭称した。
  • 四年、正月壬辰朔、車駕は河に臨み犢渚で大蒐し、癸卯、車駕は宮に還った。三月癸丑、宮を蓬台の北に築いた。司馬徳文の寧朔将軍平陽太守匈奴護軍薛辯及び司馬楚之・司馬順明・司馬道恭は並び使者を遣わして降を請うた。夏四月庚辰、車駕は東廟に有事し遠藩の助祭者数百国あった。辛巳、南巡し雁門に幸し、通過した所は今年の租賦を出さないことを賜った。五月庚寅朔、灅水で漁を観、己亥、車駕は宮に還り通過した所の一年の租賦を復した。六月、司馬徳文の建威将軍河西太守馮翊の羌酋党道子が使者を遣わして内属した。秋八月辛未、東巡し使者を遣わして恒岳を祭り、甲申、車駕は宮に還り通過した所の一年の田租を復した。九月、白登山に宮を築いた。冬十二月癸亥、西巡し雲中に至り白道を踰えて辱孤山で野馬を猟し黄河に至り君子津より西渡し薛林山で大狩した。
  • 五年、春正月丙戌朔、薛林より東還し屋竇城に至り将士を饗労し二日大酺した。禽獣を班って賜い、己亥、車駕は宮に還った。三月丙戌、南陽王意文が薨じた。夏四月、河西の屠各帥黄大虎・羌酋不蒙娥らが使者を遣わして内附した。丙寅、灅南宮を起こした。五月乙酉、詔して曰く、「宣武皇帝は道を体し一を得て天より自然に縦にした。大行大名は未だ美を尽くさず、洪烈を光揚し無窮に垂れる所以ではない。今、緯図を啓くにより尊号を始めて覩る。天人の意は煥然として著明である。その宣を改めて道とし、更に尊諡を上って道武皇帝とし、聖徳の元を彰らかにしよう。同じく郊廟に告祀し八表に宣布せよ」と。庚戌、淮南侯司馬国璠・池陽侯司馬道賜らが反を謀り伏誅した。六月丙寅、翳犢山に行幸し、秋七月丁酉、西は五原に至り、丁未、雲中の大室に幸し従者に大酺を賜った。八月癸亥、車駕は宮に還った。閏月甲午、陰平王烈が薨じた。冬十一月、詔して驍騎将軍延普に乾城を城かせた。十二月丁亥、杏城の羌酋狄温子が三千余家を率いて内附した。この歳、劉裕はその主司馬徳文を廃殺し自ら皇帝を僭称し宋と号した。李歆は沮渠蒙遜に滅ぼされ、歆の弟恂が敦煌で自立した。
  • 六年、春正月辛未、公陽に行幸した。二月、民二十戸に戎馬一匹・大牛一頭を輸させた。三月甲子、陽平王熙が薨じた。乙亥、六部の民に羊が百口を満たせば戎馬一匹を輸させることを制した。京師の六千人を発して苑を起こし旧苑の東より白登を包んで周回四十余里とした。夏六月乙酉、北巡し蟠羊山に至った。秋七月、西巡し祚山で猟し親しく虎を射て獲た。ついに河に至った。八月庚子、犢渚で大獮した。九月庚戌、車駕は宮に還り、壬申、劉裕が使者を遣わして朝貢した。冬十月己亥、代に行幸し、十二月丙申、西巡し雲中に至った。この歳、沮渠蒙遜が李恂を滅ぼした。
  • 七年、春正月甲辰朔、雲中より西行し屋竇城に幸し従者に三日の大酺を賜い蕃渠帥に繒帛を各差で賜った。二月丙戌、車駕は宮に還り従者に布帛を各差で賜い西宮で大饗した。三月乙巳、河南王曜が薨じた。夏四月甲戌、皇子燾(字は仏釐)を泰平王に封じ相国を拝し大将軍を加え、丕を楽平王とし車騎大将軍を加え、彌を安定王とし衛大将軍を加え、範を楽安王とし中軍大将軍を加え、健を永昌王とし撫軍大将軍を加え、崇を建寧王とし輔国大将軍を加え、俊を新興王とし鎮軍大将軍を加え、献懐長公主の子嵇敬を長楽王に封じ大司馬大将軍を拝した。初め、帝は素より寒食散を服し頻年発作があり万機に堪えなかったため、五月、皇太子に臨朝聴政を詔した。この月、泰平王が政を摂した。劉裕が卒し子の義符が僭立した。秋九月、詔して仮司空奚斤に節を持たせ都督前鋒諸軍事・晋兵大将軍・行揚州刺史とし、交阯侯周幾を宋兵将軍交州刺史とし、安固子公孫表を呉兵将軍広州刺史として前鋒とし劉義符を伐たせた。乙巳、灅南宮に幸しついに広寧に至った。己酉、詔して泰平王に法駕をもって百官を率いさせ東苑で田させ車乗服物はすべて乗輿の副をもってした。辛亥、平城の外郭を築くこと周回三十二里とした。辛酉、橋山に幸し使者を遣わして黄帝・唐堯の廟を祠らせ、東は幽州に幸し耆年を見てその苦を問い爵号を賜い、使者を分遣し州郡を循行させ風俗を観察させた。冬十月甲戌、車駕は宮に還り通過した所の田租を半分復した。奚斤は滑台を伐ったが克たず、帝は怒り自ら南討し声援としようと議した。壬辰、車駕は南巡し天門関より出て恒嶺を踰え、四方の蕃附の大人はそれぞれ所部を率い従う者五万余人あった。十一月、泰平王は自ら六軍を統べ塞上に出鎮し、安定王彌は北新公安同とともに居守した。丙午、司州に曲赦し殊死以下を赦した。劉義符の東郡太守王景度は滑台を棄てて走り、詔して成皋侯元苟児を兖州刺史とし滑台を鎮めさせた。十二月、寿光侯叔孫建らを遣わし衆を率い平原より東渡させ青兖の諸郡を徇下させた。劉義符の兖州刺史徐琰は渡河を聞いて棄守し走り、叔孫建はついに東は青州に入り、司馬愛之・秀之は先に済東に党を集めていたが衆を率いて来降した。
  • 八年、正月丙辰、鄴に行幸し民俗を存恤した。司空奚斤は既に兖豫を平らげ還って虎牢を囲んだが、劉義符の守将毛徳祖はこれを距守して下らなかった。河東の蜀薛定・薛輔が五千余家を率いて内属した。蠕蠕が塞を犯した。二月戊辰、長城を長川の南に築き赤城より起こし西は五原に至るまで延袤二千余里とし戍衛を備置した。三月乙巳、帝は鄴南の韓陵山で田し、汲郡に幸し枋頭に至った。乙卯、霊昌津より済り陳留・東郡に幸した。乙丑、河を済って北し西は河内に赴き冶坂津に浮橋を造った。夏四月丁卯、成皋城に幸し虎牢を観たが城内は水が乏しく縄で河を汲んでいた。帝は艦を連ね轒轀を上に施しその汲路を絶ち、また地道を穿ってその井を奪わせ、ついに洛陽に至り石経を観た。蛮王梅安は渠帥数千人を率いて方物を貢した。閏月己未、河内に還幸し、北は太行に登り高都に幸した。虎牢が潰れ劉義符の冠軍将軍司州刺史観陽伯毛徳祖・冠軍司馬滎陽太守翟広・建威将軍竇霸・振武将軍姚勇錯・振威将軍呉宝之・司州別駕姜元興・治中竇温を獲た。士衆は大疫し死者は十に二三に及んだ。辛酉、帝は晋陽に還り従官王公以下厮賤に至るまで班賜し霑らないことがなかった。五月丙寅、鴈門に還次り皇太子は留台の王公を率いて句注の北に迎えた。庚寅、車駕は北巡より至った。六月己亥、太尉宜都公穆観が薨じた。丙辰、北巡し参合陂に至り蟠羊山に遊んだ。秋七月、三会屋侯泉に幸し皇太子に百官を率いて従わせた。八月、馬邑に幸し灅源を観、九月乙亥、車駕は宮に還った。詔して司空奚斤を京師に還らせ昌平侯娥清・交阯侯周幾らに枋頭を鎮めさせた。劉義符の潁川太守李元徳が窃かに許昌に入ったが、詔して周幾がこれを撃つと元徳は遁走し許昌を還軍し枋頭に還った。冬十月癸卯、西宮を広め外垣牆を起こし周回二十里とした。十一月己巳、帝は西宮で崩じた(時に三十二歳)。遺詔により司空奚斤の獲た軍実を大臣に司徒長孫嵩以下士卒に至るまで各差で賜った。十二月庚子、諡を明元皇帝と上り雲中の金陵に葬り廟を太宗と称した。帝は礼を重んじ儒生を愛し好んで史伝を覧た。劉向の撰した新序・説苑が経典の正義に多く欠けるところがあるとし、新集三十篇を撰し諸経史から採り古義に該洽し文武を兼資させた。

史論

  • 史臣は言う。太祖は英雄として朔漢を駆り、末年は内に釁隙が多かった。明元は純孝の心を抱きながら梟鏡の禍に遭ったが、権をもって事を済い危うきを安きに帰した。基を隆め本を固め、内は和し外は輯めて徳をもって宗を見た。誠に愧じることはない。