魏書卷一 帝紀第一 序紀

拓跋鮮卑の伝説上の始祖から昭成帝什翼犍に至る、建国前の歴代祖先を記した序紀。黄帝の子孫を称する伝承に始まり、始祖神元皇帝力微が没鹿回部の竇賓のもとで勢力を蓄えて自立し、晋と結んで威を張った。穆帝猗盧・平文帝鬱律を経て昭成帝什翼犍が代国を確立するが、苻堅の来寇を受けて崩じる。魏(北魏)建国以前、代々の君主の興亡を一巻にまとめたもの。

年表(14件)
  • 始祖
  • 力微二十九年竇賓の遺児の謀反を討ち部衆をことごとく併合
  • 力微三十九年定襄の盛楽に遷り天を祭り、魏(曹魏)と和親した
  • 力微五十八年文帝沙漠汗が国内の讒言により謀殺される
  • 力微五十八年始祖が崩じる(在位五十八年、百四歳)
  • 昭帝
  • 禄官十年劉淵の反乱に対し桓帝と共に晋を助け、その軍を西河・上党で大破
  • 禄官十一年昭帝が崩じる
  • 穆帝
  • 猗盧元年劉淵が帝号を僭称し大漢と称した
  • 猗盧五年劉琨の求めに応じ大軍を発し劉聡の軍を大破
  • 猗盧八年晋の愍帝より代王に進号される
  • 猗盧九年子六脩との内紛により崩じる
  • 平文帝
  • 鬱律二年劉虎を大破し西は烏孫の故地を併せ東は勿吉に及ぶ
  • 鬱律五年桓帝の后の謀により崩じる
  • 建国元年昭成帝什翼犍が繁畤の北で即位(十九歳)
  • 建国三十九年苻堅の大軍の来寇を受け大敗し、まもなく崩じる(五十七歳)

出自と鮮卑の起源

  • 黄帝には子が二十五人あり、それぞれ中華の諸侯となる者、辺境に分封される者があった。黄帝の子昌意の少子は北方に封じられ、大鮮卑山にちなんで国号とした。
  • その子孫は代々幽都の北、広漠の野で遊牧・狩猟を業とし、文字を持たず木を刻んで契約を記した。
  • 黄帝は土徳をもって王としたため、北俗では土を「托」、后を「跋」と呼び、これを氏とした(拓跋氏の由来)。
  • 始均は堯の代に仕官し、弱水の北で女魃を追い払い、その功により田祖に任じられた。以後、三代を経て秦漢に至るまで、匈奴・獫狁・山戎など北方諸族が中原を侵したが、始均の裔は中華と交わらず、記録が伝わらなかった。
  • 六十七世を経て成皇帝(諱毛)が立ち、聡明・武略に優れ、三十六の大姓・九十九の氏族を統べて威を振るい、崩じた。

成帝から聖武帝までの歴代

  • 節皇帝(諱貸)立ち、崩じた。
  • 莊皇帝(諱観)立ち、崩じた。
  • 明皇帝(諱楼)立ち、崩じた。
  • 安皇帝(諱越)立ち、崩じた。
  • 宣皇帝(諱推寅)が立ち、南に遷って大澤(千余里、土地は暗く湿地)に至ったが、さらに南へ遷ろうとして果たせぬまま崩じた。
  • 景皇帝(諱利)立ち、崩じた。
  • 元皇帝(諱俟)立ち、崩じた。
  • 和皇帝(諱肆)立ち、崩じた。
  • 定皇帝(諱機)立ち、崩じた。
  • 僖皇帝(諱蓋)立ち、崩じた。
  • 威皇帝(諱儈)立ち、崩じた。
  • 獻皇帝(諱隣)の代、神人が現れ「この地は荒遠で都を建てるに足りない、さらに遷るべきだ」と告げた。帝は既に老いていたため、位を子に譲った。
  • 聖武皇帝(諱詰汾)は、獻帝の命により南へ山谷を越えて遷った(九難八阻の険)。神獣(馬に似た姿で牛のような声)が先導し、長い年月を経てついに匈奴の故地に至った。この遷徙の策は多く宣・獻二帝から出たため、人々は二帝を「推寅」(鑽研の意)と呼んだ。
  • 聖武帝がかつて山沢で数万騎を率いて狩りをしていたとき、天から輜軿車が降り、美しい婦人が侍衛を伴って現れた。婦人は「私は天女で、天命によりあなたと結ばれる」と言い、共寝した。翌朝去るとき「来年のこの時期、また会いましょう」と告げて去った。約束の日、帝が再びその場所を訪れると、天女は再会し、生まれた男児を帝に授けて「これはあなたの子です。よく養い育てなさい。子孫は代々帝王となるでしょう」と言い残して去った。この子が始祖である。当時の人々は「詰汾皇帝に婦家なく、力微皇帝に舅家なし」と諺に言った。聖武帝は崩じた。

始祖神元皇帝力微の治世

  • 始祖神元皇帝(諱力微)は生まれながらに英叡であった。
  • 元年(庚子)、西部が内侵し国民が離散したため、始祖は没鹿回部の大人竇賓のもとに身を寄せた。竇賓との戦で西部を攻めた際、竇賓は敗れ馬を失って徒歩で逃げた。始祖は自分の乗馬を与えて竇賓を助けた。竇賓が帰国後、馬を与えた人物を捜させ重賞しようとしたが、始祖は名乗らなかった。後に竇賓がこれを知って驚き、国の半分を譲ろうとしたが始祖は受けず、代わりに自分の娘を差し出した。竇賓はなお恩に報いようとし、望みを問うと、始祖は「所部を率いて北の長川に居住したい」と願い、竇賓はこれを許した。十数年かけて徳化が広まり、旧部の民が多く帰属した。
  • 二十九年、竇賓は臨終に際し二子に始祖への忠誠を戒めたが、二子は従わず謀反を企てた。始祖はこれを討ち殺し、その部衆をことごとく併合した。諸部の大人はみな服従し、控弦(兵士)は二十余万に達した。
  • 三十九年、定襄の盛楽に遷り、四月に天を祭った。諸部の君長がみな祭祀を助けたが、白部の大人だけは来なかったため、これを討伐して誅殺した。遠近はみな粛然として震え畏れた。始祖は諸大人に告げた、「私は前世を見るに、匈奴の冒頓のような輩は、財利を貪り辺民を略奪してわずかな利益を得ても死傷が多く、かえって仇讎を招いて百姓を苦しめる。これは長計ではない」と述べ、魏(曹魏)と和親した。
  • 四十二年、子の文帝を魏に遣わし、風土を観察させた(魏の景元二年にあたる)。文皇帝(諱沙漠汗)は国の太子として洛陽に留まり、魏の賓客として往来を絶やさなかった。魏人は金帛・繒絮を毎年万を数えるほど贈った。始祖は隣国と篤く誠実な交わりを結び、目先の利のために謀略を用いなかったため、遠近の人々が帰服した。魏晋の禅代を経ても好誼は続いた。始祖は年老い、文帝は父の老いを理由に帰国を願い、晋の武帝は礼を尽くして送らせた。
  • 四十八年、文帝が晋より帰還した。
  • 五十六年、文帝は再び晋に赴き、その年の冬に帰国した。晋は文帝に錦罽・繒綵・綿絹などを贈り、非常に豊かであった。并州に至った際、晋の征北将軍衛瓘は文帝の人物が並外れて優れていることを恐れ、密かに晋帝へ留めるよう奏請した。晋帝は信義を失うことを憚り許さなかったが、衛瓘はさらに金錦を国内の大人たちに贈って離間を図ることを進言し、晋帝はこれに従った。文帝は留められ、国の執政者や外部の大人たちはみな衛瓘の賄賂を受けた。
  • 五十八年、ようやく文帝が帰国を許された。始祖は大いに喜び、諸部の大人を陰館に遣わして迎えさせた。酒宴のさなか、文帝は飛ぶ鳥を見て「私が取ってみせよう」と言い、弓なしで手だけで弾を放つと、鳥は当たって落ちた(当時この国には弾がなく、人々は大いに驚いた)。人々は「太子の風采・服装は南夏(中国)と同じであり、加えて奇術に長ける。もし彼が国を継げば旧俗が変えられ、我々は志を得られなくなるだろう。むしろ国内の他の子弟の方が素朴で望ましい」と語り合い、離間の計略を進めて先に馳せ帰り、始祖に危害を加えるよう仕向けた。始祖が「わが子は他国を経て徳を進めたか」と問うと、みな「太子の才芸は尋常でなく、空弓で鳥を落とすとは、晋人の異法・怪術で国を乱し民を害す兆しです」と答えた。文帝が晋にいた間、始祖の寵愛は他の子たちに移りつつあり、始祖は既に高齢で惑わされやすく、大人たちの言葉を聞いて疑いを抱き、「容れられぬ者は除くべきだ」と口にした。これを受けて大人たちは塞南に馳せて文帝を謀殺した。始祖は後になって深く後悔した。文帝は身長八尺、英姿は非凡で、晋にいた間、朝士の英俊多くと親交を結び、人々に慕われていた。後に追諡された。
  • その年、始祖は病に倒れた。烏丸王の庫賢は衛瓘の賄賂を受けていたため諸部を動揺させようと企み、庭中で斧を研いでいた。大人たちが何をするのかと問うと、「上(始祖)は汝らが太子を讒殺したことを恨み、諸大人の長子をことごとく捕えて殺そうとしている」と答えた。大人たちはこれを信じてみな逃げ散った。始祖はまもなく崩じた。国を治めること凡そ五十八年、齢は百四歳であった。太祖(道武帝)の即位に際し、始祖と尊称された。

章帝から昭帝までの略伝

  • 章皇帝(諱悉鹿)が立った。始祖の子である。諸部が離反し国内は紛擾し、国を治めること九年で崩じた。
  • 平皇帝(諱綽)が立った。章帝の末弟である。雄武で智略に優れ、威徳が再び興った。七年、匈奴宇文部の大人莫槐がその部下に殺され、莫槐の弟普撥が代わって大人となった。帝は娘を普撥の子丘不勤に嫁がせた。帝は国を治めること七年で崩じた。
  • 思皇帝(諱弗)が立った。文帝の末子である。聡哲で度量が大きく、諸父兄に重んじられた。政は寛簡を旨とし、百姓は心服した。国を治めること一年で崩じた。
  • 昭皇帝(諱禄官)が立った。始祖の子である。国を三部に分けた。帝は自ら東部を治め、上谷の北、濡源の西に居し、東は宇文部と接した。文帝の長子桓皇帝(諱猗㐌)に一部を統べさせ代郡の参合陂の北に居させ、桓帝の弟穆皇帝(諱猗盧)に一部を統べさせ定襄の盛楽故城に居させた。始祖以来、晋との和好が続き、百姓は安んじ財畜も富み、控弦の騎士は四十余万に達した。この年、穆帝は初めて并州に出て雑胡を雲中・五原・朔方に遷し、さらに西に黄河を渡って匈奴・烏桓の諸部を撃ち、杏城以北から長城原に至る八十里の道沿いに石碑を立て、晋との境とした。
  • 二年、文帝と皇后封氏を改葬した(思帝が改葬を望みながら果たせず崩じたのを受け継いだ)。晋の成都王司馬穎・河間王司馬顒・并州刺史司馬騰らがそれぞれ使者を遣わして会葬し、遠近から集まった者は二十万人に及んだ。
  • 三年、桓帝は漠北を巡視し西方諸国を略した。
  • 四年、東部の未耐婁の大人倍斤が遼東に来住した。
  • 五年、宇文莫廆の子遜昵延が朝貢し、帝はその誠意を嘉して長女を娶らせた。
  • 七年、桓帝が西略から帰還した。降附した国は二十余国、五年をかけて東に戻った。
  • 十年、晋の恵帝が成都王穎に鄴に留められ、匈奴別種の劉淵が離石で反し漢王を自称した。并州刺史司馬騰が救援を乞い、桓帝は十余万騎を率い、帝も同時に大挙してこれを助け、劉淵の軍を西河・上党で大破した。恵帝が洛陽に戻ると司馬騰は援軍を辞退し、桓帝は汾東で司馬騰と盟を結んで還った。輔相の衛雄・段繁は参合陂の西に石を積んで碑を立て、事績を記した。
  • 十一年、劉淵が司馬騰を攻め、司馬騰は再び援軍を乞うた。桓帝は軽騎数千でこれを救い、劉淵の将綦毋腞を斬った。劉淵は南の蒲子に逃げた。晋は桓帝に大単于の金印紫綬を仮授した。この年、桓帝は崩じた。帝は英傑・魁岸で馬に乗ることができないほど大柄で、常に大牛の引く安車に乗った(牛角は一石を容れるほど大きかった)。帝はかつて蠱毒に中って嘔吐した地に榆の木が生え、参合陂の土地は本来榆の木がないため世人は不思議に思い、今も語り継がれている。帝が国を統べたのは凡そ十一年。定襄侯衛操が大㢴城に碑を立て功徳を頌えた。子の普根が代わって立った。
  • 十二年、賨人の李雄が蜀で帝号を僭称し、大成と号した。
  • 十三年、昭帝が崩じた。徒何の大単于慕容廆が使者を遣わして朝貢した。この年、羯胡の石勒は晋の馬牧帥汲桑とともに反した。

穆皇帝猗盧の治世

  • 穆皇帝は天性英特で勇略人に優れた。昭帝の崩後、三部を総攝して一つに統合した。
  • 元年、劉淵が帝号を僭称し大漢と称した。
  • 三年、晋の并州刺史劉琨は子の遵を人質として遣わした。帝はその意を嘉して厚く報いた。白部の大人が反して西河に入り、鉄弗の劉虎は雁門で衆を挙げてこれに応じ、劉琨の新興・雁門二郡を攻めた。劉琨が援軍を乞い、帝は弟の子平文皇帝に騎二万を率いさせて劉琨を助け、白部を大破し、続いて劉虎を攻めてその営落を屠った。劉虎は残兵を率いて西走し、黄河を渡って朔方に逃げ隠れた。晋の懐帝は帝を大単于に進め代公に封じた。帝は封邑が国から遠く隔たっているため、劉琨に句注陘北の地を求めた。劉琨は帰属を喜び、馬邑・陰館・楼煩・繁畤・崞の五県の民を陘南に移して新たに城邑を立て、その地をすべて献じた。東は代郡に接し、西は西河・朔方に連なる方数百里の地であった。帝は十万家を移してこれを満たした。劉琨はさらに援軍を乞い洛陽を救おうとし、帝は歩騎二万を遣わして助けた。晋の太傅東海王司馬越は洛中の飢饉を理由に軍を返した。この年、劉淵が死に、子の劉聡が僭立した。
  • 四年、劉琨の牙門将邪延が新興に拠って反し、劉聡を招き入れた。帝は軍を遣わしてこれを討ち、劉聡は退走した。
  • 五年、劉琨は援軍を乞い劉聡・石勒を討とうとした。帝は劉琨の忠義を憐れんで許可した。折しも劉聡は子の劉粲を遣わして晋陽を襲い、劉琨の父母を殺してその城を奪った。劉琨が難を告げると、帝は激怒し、長子六脩・桓帝の子普根、および衛雄・范班・姫澹らを前鋒とし、自ら二十万の大軍を率いて後継とした。劉粲は恐れて輜重を焼き囲みを破って逃走し、追撃を受けて将の劉儒・劉豊・簡令・張平・邢延を斬り、屍は数百里に及んだ。劉琨が来て謝罪すると、帝は礼をもって遇した。劉琨がなお進軍を請うと、帝は「私が早く来なかったために卿の父母が害されたのは誠に申し訳ないが、卿は既に州境を回復した。私は遠来で兵馬は疲弊しており、しばらく待って後に賊を討とう」と述べ、劉琨に馬牛羊各千余車を贈って還った。この年、晋の雍州刺史賈疋・京兆太守閻鼎は懐帝が劉聡に捕らわれたため、共に懐帝の兄子秦王業を長安で太子に立て、行台を称した。帝は再び戒厳し、劉琨と大挙を約し、劉琨に晋の行台の部署を自ら分けさせ、帝は十万騎を西河・鑒谷から南に出し、晋軍を蒲坂から東に渡らせ、平陽で合流して聡の穀倉を奪い晋帝を迎え復そうとしたが、事は果たされなかった。
  • 六年、盛楽に城を築き北都とし、旧平城を修めて南都とした。帝は平城の西山に登って地勢を望み、さらに南百里、灅水の陽・黄瓜堆に新平城を築いた(晋人はこれを小平城と呼んだ)。長子六脩にこれを鎮めさせ、南部を統領させた。
  • 七年、帝は再び劉琨と平陽で会する約束をしたが、石勒が王浚を捕らえた。国内の匈奴雑胡万余家の多くは石勒と同種であり、勒が幽州を破ったと聞いて反乱に応じようと謀ったが発覚し誅された。このため劉聡討伐の計画は中止された。
  • 八年、晋の愍帝は帝を代王に進め、代郡・常山二郡を食邑とした。帝は劉聡・石勒の乱に憤り、これを平らげようと志した。もとより国俗は寛簡で民は禁令に疎かったが、この時から刑罰を明らかにし法を厳しくした。多くの部民が命令に背いたとして罪に問われ、期限に遅れた者は部ごと戮された。家族が手を取り合って死地に赴き、「どこへ行くのか」と問われて「誅殺を受けに行く」と答える者もいたという。その威厳が物を服させたのはこの類であった。
  • 九年、帝は六脩を召したが六脩は応じず、帝は怒って討ったが失利し、微服して民間に逃れ、ついに崩じた。普根は先に外境を守っていたが、変事を聞いて駆けつけ、六脩を攻め滅ぼした。衛雄・姫澹は晋人および烏丸三百余家を率いて劉遵に従い南の并州に奔った。普根が立ったが一月余りで薨じた。普根の子(生まれたばかり)を桓帝の后が立てたが、その冬にまた薨じた。この年、李雄が使者を遣わして朝貢した。

平文皇帝鬱律の治世

  • 平文皇帝(諱鬱律)が立った。思帝の子である。姿質は雄壮で威略に富んだ。
  • 元年(丁丑)。
  • 二年、劉虎が朔方に拠って西部を侵し、帝はこれを迎撃して大破した。劉虎は単騎で敗走し、その従弟路孤は部落を率いて内附し、帝はこれに娘を娶らせた。西は烏孫の故地を併せ、東は勿吉を呑み込み、控弦上馬の兵は百万に達しようとした。劉聡が死に子の劉粲が僭立したが、部将靳準に殺され、劉淵の族子劉曜が僭立した。帝は晋の愍帝が劉曜に殺されたと聞き、大臣に「今や中原に主なし、天は我に資するか」と語った。劉曜は使者を遣わして和を求めたが、帝は受けなかった。この年、司馬叡が江南で帝位を僭称した。
  • 三年、石勒は趙王を自称し、使者を遣わして和を求め兄弟の誼を結ぼうとしたが、帝はその使者を斬って断った。
  • 四年、私に涼州刺史を称する張茂が使者を遣わして朝貢した。
  • 五年、司馬叡が使者韓暢を遣わして爵服を加えようとしたが、帝は断った。兵を治め武を講じ南夏を平らげる志を持った。桓帝の后は、帝が衆望を得ていることを自らに不利と恐れ、子に帝を害させて帝は崩じた。大人で死んだ者は数十人に及んだ。天興初年、太祖と尊称された。

惠皇帝から烈皇帝までの治世

  • 惠皇帝(諱賀傉)が立った。桓帝の中子である。五年を元年とし、まだ親政せず太后が臨朝した。使者を遣わして石勒と和を通じ、当時の人はこれを「女国使」と呼んだ。
  • 二年、司馬叡が死に子の紹が僭立した。
  • 四年、帝は初めて臨朝し、諸部の人情がまだ十分服していないため東木根山に城を築いて遷都した。この年、張茂が死に兄寔の子駿が立ち、使者を遣わして朝貢した。
  • 五年、帝が崩じた。この年、司馬紹が死に子の衍が僭立した。
  • 煬皇帝(諱紇那)が立った。惠帝の弟である。五年を元年とした。
  • 三年、石勒は石虎に騎五千を率いさせ辺部を侵させたが、帝はこれを句注陘北に迎え撃ち利あらず、大寧に遷った。この時、烈帝は舅の賀蘭部にいたが、帝は使者を遣わして迎えようとしたところ、賀蘭部帥の藹頭は擁護して渡さなかった。帝は怒り、宇文部を召して勢を併せ藹頭を撃ったが、宇文の軍が敗れ、帝は大寧に還った。
  • 四年、石勒が劉曜を捕らえた。
  • 五年、帝は宇文部に出居し、賀蘭および諸部の大人は共に烈帝を立てた。
  • 烈皇帝(諱翳槐)が立った。平文帝の長子である。五年を元年とした。石勒は使者を遣わして和を求め、帝は弟の昭成皇帝を襄国へ従者五千余家とともに遣わした。
  • 二年、石勒が帝位を僭称し大趙王と号した。
  • 五年、石勒が死に子の石虎が僭立した。慕容廆が死に子の元真が代わって立った。
  • 六年、石虎は石虎(大雅)を廃して僭立し、李雄が死に兄子の班が立ったが、雄の子期が班を殺して自立した。
  • 七年、藹頭が臣職を修めないとして召され誅殺された。国人は再び二心を抱き、煬帝が宇文部から戻ると諸部の大人は再びこれを奉じた。
  • 煬皇帝が再び立った。七年を後元年とした。烈帝は鄴に出居し、石虎は邸宅・妓妾・奴婢・什物を与えた。
  • 三年(後)、石虎は将の李穆に騎五千を率いさせ烈帝を大寧に納めさせ、国人六千余落が煬帝から離反した。煬帝は慕容部に出居した。
  • 烈皇帝が再び立った。三年を後元年とし、新盛楽城(旧城の東南十里)を築いた。一年で崩じた。

昭成皇帝什翼犍の治世

  • 昭成皇帝(諱什翼犍)が立った。平文帝の次子である。生まれつき奇偉で寛仁大度、喜怒を色に表さず、身長八尺、隆準龍顔、立てば髪が地に垂れ、臥せば乳が席に届いたという。烈帝は臨終に「必ず什翼犍を迎え立てよ、さすれば社稷は安泰であろう」と遺言した。烈帝が崩じると、帝の弟孤が自ら鄴に赴いて迎え、ともに帰国した(事は孤伝にある)。
  • 建国元年、十一月、帝は繁畤の北で即位した(時に十九歳)。この歳、李雄の従弟李寿が李期を殺して僭立し、漢と号した。
  • 二年、初めて百官を置き衆職を分掌した。東は濊貊、西は破洛那に至るまで帰服しない者はなかった。夏五月、参合陂に諸大人を集めて都を灅源川に定めようとしたが決着せず、太后の計に従って中止した(事は皇后伝にある)。慕容元真の妹を娶り皇后とした。
  • 三年、都を雲中の盛楽宮に遷した。
  • 四年、盛楽城を旧城の南八里に築いた。皇后慕容氏が崩じた。劉虎が西境を侵したが、帝は軍を遣わして大破し、劉虎はわずかに身一つで逃れた。劉虎が死に子の務桓が立ち、帰順して帝はこれに娘を娶らせた。慕容元真は使者を遣わして朝貢し、宗女を薦めた。
  • 五年、参合陂に幸し、諸部が集まり武を講じ馳射を行うことを恒例とした。慕容元真は再び女を薦めようとした。
  • 六年、慕容元真は女を薦めることを請うた。李寿が死に子の李勢が僭立した。
  • 七年、大人長孫秩を遣わして皇后慕容氏(元真の女)を境で迎えた。慕容元真は使者を遣わして婚を求め、帝は許し、烈帝の女を妻とした。
  • 八年、慕容元真が朝貢した。張駿は私に涼王を仮称した。
  • 九年、石虎が朝貢した。張駿が死に子の重華が代わって立った。
  • 十年、鄴に使者を遣わして情勢を観察させた。司馬聃が李勢を捕らえ、張重華が朝貢した。
  • 十一年、慕容元真が死に子の儁が代わって立った。
  • 十二年、石虎が死に子の石世が立ち、世の兄石遵が石世を殺して自立し、遵の兄石鑒が遵を殺して自立した。
  • 十三年、魏郡人の冉閔が石鑒を殺して僭立した。
  • 十四年、帝は「石胡は衰滅し、冉閔は中州で禍をなしている。誰も匡救しない。私は自ら六軍を率いて四海を平定しよう」と述べ、諸部に統率下の兵を集めさせたが、諸大人は「中州は大乱だが、豪傑が競い起っており、もし長く滞陣すれば永逸の利はなく、かえって損失を招く恐れがある」と諫め、帝は思い止まった。この年、氐の苻健が帝位を僭称し大秦と号した。
  • 十五年、慕容儁が冉閔を滅ぼし尊号を僭称した。
  • 十六年、慕容儁が朝貢した。張重華が死に子の曜霊が立ったが、重華の庶兄祚が曜霊を殺して自立し涼公と称した。
  • 十七年、慕容儁に使者を遣わした。張祚は再び涼王を称し百官を置き、朝貢した。
  • 十八年、太后王氏が崩じた。苻健が死に子の苻生が僭立した。羌の姚襄が大将軍大単于を自称した。張瓘・宋混が張祚を殺し重華の少子𤣥靖を立て涼王と称した。
  • 十九年、劉務桓が死に弟の閼頭が立ち、密かに反叛を謀った。帝は西巡して黄河に臨み、人を遣わして閼頭を招諭し従わせた。慕容儁が婚を求め、これを許した。
  • 二十年、慕容儁が納幣の礼を奉じた。苻堅が苻生を殺して僭立し、姚襄は苻眉に殺された。
  • 二十一年、閼頭の部民は多く反乱し東へ逃走を図ったが、渡河の途中で氷が陥没し多くが死んだ。残った衆は閼頭の兄子悉勿祈に帰した。当初、閼頭の反乱に際し悉勿祈兄弟十二人は帝の左右にあったが、みな帰らせて自ら猜疑・離間させようとしたところ、この機に悉勿祈がその衆を奪った。閼頭は窮して帰服し、帝は初めと同じく待遇した。
  • 二十二年、帝は東巡し桑乾川に至った。慕容儁が朝貢した。帝は雲中に帰還した。悉勿祈が死に弟の衛辰が立ち、子を朝貢に遣わした。
  • 二十三年、皇后慕容氏が崩じた。衛辰が会葬に来て婚を求め、帝はこれを許した。この年、慕容儁が死に子の暐が立ち、使者を遣わして賻を致した。
  • 二十四年、衛辰が朝聘の使者を遣わした。司馬聃が死に子の千齡が僭立した。
  • 二十五年、帝は南巡し君子津に至った。冬、代に行幸した。慕容暐が女を後宮に薦めた。
  • 二十六年、帝は高車を討ち大破し、獲得した口数は万を数え、馬牛羊は百余万頭に及んだ。この年、張重華の弟天錫が元靖を殺して自立した。
  • 二十七年、帝は雲中に還り、冬、没歌部を討ってこれを破り、牛馬羊数百万頭を獲得した。
  • 二十八年、衛辰が反を謀り東に渡河したが、帝の討伐を受けて逃走した。苻堅が朝貢した。司馬千齡が死に弟の奕が僭立した。
  • 二十九年、燕鳳を苻堅への使者として遣わした。
  • 三十年、帝は衛辰を討った。黄河の氷がまだ十分に張らないため、葦を編んで水に浮かべると氷が結び、その上にさらに葦を散らして浮橋とし、諸軍はこの利を用いて不意を突いた。衛辰は宗族と共に西走し、その部落を追撃して牛馬羊数十万頭を獲得した。
  • 三十一年、帝は西伐から帰還し、各々に班賞した。
  • 三十二年、帝は南は君子津、冬は代に行幸した。
  • 三十三年、冬、高車を征して大破した。この年、苻堅が慕容暐を捕らえた。
  • 三十四年、長孫斤が反を謀り誅されたが、その際に御座に刃を向け、太子献明皇帝(諱寔)を脇に傷つけた。太子は夏五月に薨じ、後に追諡された。秋七月、皇孫珪(後の道武帝)が生まれ、大赦した。この年、司馬奕は臣桓温に廃されて海西公とされ、司馬昱(簡文帝)が立った。
  • 三十五年、司馬昱が死に子の昌明が僭立した。
  • 三十六年、夏五月、燕鳳を苻堅への使者に遣わした。
  • 三十七年、帝は衛辰を征し、衛辰は南に逃走した。
  • 三十八年、衛辰が苻堅に援を求めた。
  • 三十九年、苻堅は大司馬苻洛に衆二十万、朱彤・張蚝・鄧羌ら諸道の軍を率いさせ来寇した。冬十一月、白部・独孤部がこれを防いだが敗れ、南部大人劉庫仁は雲中に逃走した。帝は再び劉庫仁に騎十万を率いさせ石子嶺で迎撃したが利あらず、帝はこの時病を得ており、群臣も対処できず、国人を率いて陰山の北に避難した。高車雑種はみな反し四方から侵掠し、糧秣を得られず、再び漠南を渡った。苻堅の軍がやや退いたため帝は帰還し、十二月に雲中に至った。旬余日で帝は崩じた(享年五十七)。太祖が即位し高祖と尊称した。帝は性格が寛厚で智勇仁恕であった。当時国中には絹布が少なく、代の人許謙が絹二匹を盗んだが、守者がこれを告げると帝は隠して燕鳳に「私は謙の顔を見るに忍びない、卿は口外するな」と言った。謙は後に恥じて自殺したが、財のために士を辱めることは不可であると帝は考えたという。帝はかつて西部の叛賊を撃った際、流矢が目に当たったが、賊を破った後、諸大臣は射た者を錐刀で処刑しようとした。帝は「彼らはそれぞれの主のために戦ったのであり、何の罪もない」と言い、これを釈放した。この年、苻堅が張天錫を滅ぼした。

史論

  • 史臣は言う。帝王が興るには必ず積徳と累功があり、道理は幽顕にわたって天地の心に協う。魏の始まりは幽方に潜み、代々君長として世に居り、時勢に応じて民を育んだ。始祖は天女より生まれ、桓帝・穆帝は晋室に勤め、その霊験と人事はいずれも偶然ではなかった。昭成帝は雄傑の資と君子の度量を兼ね、四方を征服してその威は遠方にまで及んだ。ついに国号を立て都を改め、隆盛の大業を興し、百六十年にわたって光を天下に及ぼした。その基は必然のものであった。