元史紀事本末察罕特穆爾の失地回復の功(察罕特穆爾克復之功)

潁州沈邱の察罕特穆爾が義兵を興し、河南・関中・河東・山東を次々に回復して元朝最大の柱石となった事績。順帝至正十二年十二月(1352年)の汝寧府達嚕噶斉任命から至正二十一年(1361年)の遇害まで十年間。李思斉とともに羅山を襲って名を挙げ、中牟で三十万の賊を破り、陝州・鳳翔を救って関中を平定し、太行の諸道を断って河東を守った。汴梁を落として劉福通を追い、山東もほぼ平定したが、降将の田豊・王士誠に刺されて没し、子の庫庫特穆爾が跡を継いで益都を抜いた。

年表(8件)

順帝至正十二年十二月(1352年)

  • 察罕特穆爾を汝寧府達嚕噶斉とした。
  • これより先、汝寧・潁州で盗賊が起こり、江淮の諸郡はみな荒廃した。朝廷は兵を徴して討伐したが、ついに成果が上がらなかった。
  • 潁州沈邱の人・察罕特穆爾は義兵を興し、従うことを願った沈邱の子弟数百人と、羅山の李思斉とともに奇計を巡らせて羅山を襲って破った。事が奏聞され、朝廷は察罕特穆爾を汝寧府達嚕噶斉、思斉を知府事とした。
  • そこで各地の義士がみな兵を率いて集まり、一万を得て一軍をなし、沈邱に屯して幾度も賊と戦って勝ち続けた。

至正十五年(1355年)

  • 汝寧・潁州の賊の勢いがますます盛んになり、汴から南の鄧州・許州・嵩州・洛州などを陥れた。察罕特穆爾は兵を率いて転戦しながら北上し、虎牢を守ってその鋒先を阻んだ。
  • 賊は北へ孟津を渡って焼き掠め、覃懐に至って河北は震動した。察罕特穆爾が進んで戦って大破し、残党が河の中洲に柵を立てたのを一人残らず殲滅して河北は平定された。朝廷はその功を非凡として中書刑部侍郎に除した。
  • 苗軍が滎陽で叛くと、察罕特穆爾は夜襲してその衆を捕らえ、そのまま中牟に営を構えた。
  • まもなく淮右の賊の衆三十万が汴の西を掠めて中牟の営に押し寄せた。察罕特穆爾は陣を組んで待ち、生死と利害を士卒に諭すと、士卒は勇を奮って決死の戦いをし、一人が百人に当たらぬ者はなかった。折しも大風が砂を巻き上げ、自ら勇士を率いて鬨の声を上げて中から突き出し、賊の中堅を撃った。賊の勢いは崩れて支えきれず、旗鼓を棄てて逃げ、十里余りを追撃して斬首は数え切れず、軍勢は大いに振るった。

至正十六年(1356年)

  • 汝寧・潁州の賊である李武・崔徳らが陝州を陥れ、そのまま殽と函谷を断って秦・晋へ向かおうとした。知枢密院事の達実巴図爾はこのとき河南の軍を統率しており、察罕特穆爾と李思斉を調発して攻めさせた。
  • 察罕特穆爾はただちに軍を進めて西へ向かい、夜に殽陵を抜いて交口に柵を立てた。陝城は堅固で、賊は南山から粟を運んで食に充て固く守り、急には落ちなかった。
  • そこで察罕特穆爾は営中で馬糞を焼いて炊煙のように見せかけて賊を欺き、夜に兵を率いて霊宝城を抜いた。賊はようやく気づいたが動けず、河を渡って安邑を掠めた。察罕特穆爾は鉄騎で追撃して追い詰め、賊は引き返して下陽に拠ったが、水に落ちて死ぬ者が甚だ多かった。賊は勢いが窮して逃げ去った。功により河北行枢密院事を加えられた。

至正十七年(1357年)

  • 劉福通が一党の毛貴を遣わして膠州を陥れ、倪文俊が陝州を陥れ、李武らが商州を破って武関を攻め、そのまま長安へ直行し、同州・華州などを掠め、三輔は震え恐れた。
  • そのとき行台の豫王・喇特納錫哩および省・院の官はみな恐慌をきたして策がなかった。侍御史の王思誠が「察罕特穆爾の名は賊がかねて畏れております。使者を遣わして援けを求めるのが上策です」と述べた。守将は自分の立場が押されるのを恐れて議論が長く決しなかった。思誠は「我が兵は弱く、朝夕にも守りを失う。咎は誰に帰すのか」と述べた。
  • そこで察罕特穆爾に書を送り、「河南と陝西の二省は互いに唇歯の関係にある。陝西が危うければ河南だけが安泰でいられようか」と伝えた。察罕特穆爾は陝州を回復したばかりで、書を得て大いに喜び、軽装の兵五千を率いて李思斉と倍の速さで救援に赴いた。賊に遭って転戦し、殺し掠めた数は数え切れず、賊はついに潰えた。
  • 勝報が届き、朝廷は察罕特穆爾を陝西行省左丞とした。
  • まもなく賊が巴蜀から秦・隴を陥れて鞏昌に拠り、鳳翔をうかがった。察罕特穆爾はまず兵を分けて鳳翔城に入れて守らせ、間諜を放って賊を誘い鳳翔を包囲させた。そのうえで自ら鉄騎を率い、昼夜二百里を駆けて救援に赴き、軍を分けて左右の翼を張って襲いかかった。城中の軍も門を開いて鬨の声を上げて出、内外から挟み撃ちにして呼び声が天地を動かした。賊は大いに乱れて自ら踏み合い、斬首は数万、残党はみな逃げ、関中はこうして平定された。

至正十八年(1358年)

  • 賊の毛貴らが山東を陥れ、道を分けて京畿に迫った。朝廷が諸道の兵を召して守りに就かせ、詔により察罕特穆爾に涿州へ屯させた。
  • 察罕特穆爾は兵を留めて清湫・義谷を守らせ、潼関に屯して南山口を塞いで他の賊に備え、自ら精鋭を率いて召しに応じた。
  • そのころ曹州・濮州の賊が道を分けて太行を越え、上党を焼き、晋・冀を掠め、雲中・雁門・上郡を陥れ、烽火は数千里に及び、また大いに掠めて南へ帰ろうとした。察罕特穆爾はまず兵を南山の隘路に伏せ、自ら重兵を率いて聞喜・絳陽に屯した。賊が果たして南山に出ると伏兵を放って横撃し、賊はみな輜重を棄てて山谷へ逃げた。
  • そのうえで兵を分けて沢州に屯して碗子城を塞ぎ、上党に屯して吾児谷を塞ぎ、并州に屯して井陘口を塞いで太行の諸道を断った。賊はたびたび来襲したが、守将が幾度も血戦して撃退し、河東は平定された。
  • 陝西行省右丞兼行台侍御史・同知河南行枢密院事に進んだ。そこで朝廷は詔して、関中・陝西・晋・冀を守禦し、漢・沔・荊・襄を撫し鎮め、便宜に事を行わせた。察罕特穆爾はいよいよ兵を練り農を教え、四方の平定を自らの責務とした。
  • この年、劉福通が汴梁を陥れ、宮闕を造り正朔を改め、群盗を号令した。巴蜀・荊楚・江淮・斉魯・遼西から甘粛まで各地で兵が起こり、勢いは互いに連なった。
  • 察罕特穆爾は北は太行を塞ぎ、南は鞏・洛を守り、自ら中軍を率いて沔池に軍し、汴を取ろうと図った。折しも叛将の周全が賊軍で洛陽を攻めたので、察罕特穆爾は奇兵を宜陽に出して破った。陝西行台平章政事に進み、なお同知行枢密院事を兼ねた。

至正十九年(1359年)

  • 察罕特穆爾は大軍を虎牢に宿し、まず遊撃の騎兵を放って、南の道は汴の南に出て帰徳・亳州・陳州・蔡州を掠め、北の道は汴の東に出て、戦船を梁水に浮かべて水陸ともに下り、曹南を掠めて黄陵渡に拠らせた。
  • そのうえで秦の兵を大挙して函谷を出て虎牢を過ぎさせ、晋の兵を太行から出して黄河を越えさせ、そろって汴城の下に会し、まず外城を奪った。察罕特穆爾は自ら鉄騎を率いて杏花営に屯し、諸将は城を取り巻いて塁を築いた。賊はたびたび出て戦ったがそのたび敗れ、ついに城に籠って守った。
  • そこで夜に城の南に兵を伏せ、翌朝、苗軍の跳ねっ返りを遣わして城を掠めながら東へ向かわせた。賊が城を挙げて追って出ると、伏兵が鬨の声を上げて起こり、迎え撃って破った。
  • また弱兵に外城に柵を立てさせて賊を誘った。賊が出て争うと偽って逃げ、城の西に迫ったところで鉄騎を放って突撃し、その衆をことごとく捕らえた。賊はこれ以後、出てこなくなった。
  • 五月から八月まで、城中が計窮まって食も尽きようとしていることを間諜で知り、諸将の関思孝らと議して門ごとに分かれて攻めた。夜になり将士は勇を奮って城に登り、閂を斬って入り、ついに攻め落とした。劉福通は偽の主君を擁して数百騎とともに東門から逃げ去った。
  • 勝報が届き、河南平章政事兼枢密・陝西行台御史中丞に進み、詔をもって天下に告げた。
  • これより先、中原が乱れて江南からの海漕が通じなくなり、京師はたびたび飢えを訴えていた。ここに至って河南が平定され、檄書が江浙に届いて海漕はふたたび至るようになった。

至正二十一年(1361年)

  • 察罕特穆爾が山東を平定した。
  • これより先、察罕特穆爾は河南を定めると、兵を分けて関中・陝西・荊襄・河洛・江淮を鎮め、太行に重兵を屯した。営塁と旗が数千里に連なった。そのうえで日々、車と船を修め兵器を整え、農を務めて穀を蓄え、士卒を訓練して、大挙して山東を回復しようと図った。
  • ここに至って、山東の群盗が互いに攻め殺し合い、済寧の田豊も賊に降ったことを間諜で知った。
  • 六月、察罕特穆爾は病を押して輿で陝から洛に至り、諸将を大いに集めて出師の時期を議した。并州の軍は井陘から、遼州・沁州の軍は邯鄲から、沢州・潞州の軍は磁州から、懐州・衛州の軍は白馬から出し、汴・洛の軍は水陸ともに下って、道を分けて同時に進ませた。自らは鉄騎を率い、大将の旗鼓を立てて孟津を渡り覃懐を越え、東へ進んで冠州・東昌を回復した。
  • 八月、軍は塩河に至り、子の庫庫特穆爾および諸将に精兵五万を率いさせて東平を衝かせた。東平の賊と遭遇して二度戦っていずれも破り、斬首は一万余、まっすぐその城下に迫った。
  • 察罕特穆爾は、田豊が長く山東に拠って軍民が服していることから、書を送って順逆の理を諭した。豊と王士誠はみな降り、こうして東平・済寧を落とした。
  • 当時、大軍はまだ渡っておらず、群賊はみな済南に集まって斉河・禹城に兵を出して抗戦した。察罕特穆爾は奇兵を分けて間道から賊の背後へ回らせ、南は泰安を掠めて益都に迫り、北は済陽・章邱を巡り、中は海沿いの郡邑を回らせた。そして自ら大軍を率いて河を渡り、賊将と分斉で戦って大破し、進んで済南城に迫ると、斉河・禹城もともに降ってきた。南の道の諸将も勝報を寄せ、ふたたび益都の兵を好石橋で破り、東は海辺まで郡邑がみな風を聞いて帰順を申し出た。
  • 済南を三か月囲んで城は落ちた。詔により中書平章政事・知河南山東行枢密院事を拝し、陝西行台中丞はもとのままとした。
  • 察罕特穆爾はそのまま兵を進めて益都を囲み、城を取り巻いて数十の営を連ね、攻城の器具を大いに整えて百方から攻めた。賊は力を尽くして守った。そこでさらに二重の塹を掘って長い囲いを築き、南洋河を堰き止めて城中に注ぎ込み、あわせて要害を分けて守り、流亡した民を集め、郡県の戸口はふたたび版図に戻り、号令は一新した。

至正二十一年(察罕特穆爾遇害)

  • 察罕特穆爾が田豊に殺された。当時、山東はすべて平定され、ただ益都の孤城だけがまだ落ちていなかった。
  • 六月、田豊と王士誠がひそかに賊と結んで再び叛こうと図った。豊が降ったとき、察罕特穆爾は誠を推して疑わず、しばしば単身でその帳中に入っていた。豊は謀反を起こそうとして、察罕特穆爾に営塁を見て回るよう請うた。衆は行くべきでないと言ったが、察罕特穆爾は「私は心を推して人に接している。どうして一人ひとりを警戒できようか」と述べた。左右が力士を従えるよう請うたが、これも許さず、わずか十一騎の軽騎で行った。
  • 王信の営に至り、さらに豊の営に至ったところで、王士誠に刺された。
  • これより先、索のような白気が長さ五百丈余にわたって危宿から起こり太微垣を掃った。太史が山東に大水があると奏すると、帝は「そうではない。山東で必ず一人の良将を失う」と述べ、ただちに詔を馳せて察罕特穆爾に軽率な行動を戒めたが、届く前に難に遭った。
  • 詔により潁川王を贈り、忠襄と諡し、その子の庫庫特穆爾を平章政事兼知山東河南行枢密院事として代わってその兵を総べさせた。
  • 庫庫特穆爾は父の職を襲うと、自ら将士を率いて必ず復讐すると誓ったが、賊の城の守りはいよいよ堅かった。そこで壮士を遣わして地下に穴を掘って道を通し、十一月についにその城を抜き、賊の首領の陳猱頭ら二百余人を捕らえ、田豊と王士誠の心臓を取って父を祭った。残党もみな誅され、さらに兵を遣わして莒州を取り、山東は平定された。