元史紀事本末東南の喪乱(東南喪亂)

方国珍・徐寿輝・張士誠・陳友諒ら東南の群雄が相次いで起こり、江浙・湖広・淮南が元の手を離れていく過程を追う。順帝至正八年十一月(1348年)の方国珍の挙兵から至正二十三年(1363年)の張士誠の呉王自称まで十六年間。朝廷は招降と討伐を繰り返して統制を失い、李黼・台哈布哈・李斉・桑節・余闕・巴延布哈徳済ら守臣が次々に死節した。徐寿輝は陳友諒に弑されて漢が起こり、張士誠は達実特穆爾を虚位に追いやって呉王を称し、やがてともに明に滅ぼされる。

年表(28件)

順帝至正八年十一月(1348年)

  • 台州黄巌の民・方国珍が兵を挙げた。
  • もともと国珍は蔡乱頭らと仇敵として殺し合い、そのまま海に入って乱をなし、漕運を掠奪した。詔により江浙参政の多爾済巴勒が討伐に向かい、福州まで追った。国珍は事の危うさを知って舟を焼いて逃げようとしたが、官軍は勝手に驚いて潰え、多爾済巴勒は捕らえられた。国珍は多爾済巴勒に迫って招降の状を書かせ、朝廷はこれに従って国珍兄弟に官を授け、多爾済巴勒の罪を問おうとした。
  • 枢密参議の帰暘は「将が敗れた罪はもとより当然だが、その部下はみな北方の歩騎で水戦に不慣れであり、死地へ追いやったようなものだ。海辺の民で水に習熟した者を募って捕らえさせるべきである。今、国珍が人を遣わして降を請うているのは、決して受け入れてはならぬ。国珍はすでに我が王師を破り、我が王臣を拘留した。力が尽きて来たのであって真の降伏ではない。必ず討って四方に示すべきだ」と述べた。しかし当時の朝廷は事なかれ主義で、結局その請いに従った。国珍兄弟は赴任せず、勢いはますます猖獗となった。

至正十一年六月(1351年)

  • 方国珍兄弟が海に入って沿海の州郡を焼き掠めた。朝廷は江浙行省左丞の博囉特穆爾を遣わして撃たせた。
  • 兵が大閭洋に至ると、国珍は夜に精鋭を率いて火を放ち鬨の声を上げ、官軍は戦わずしてみな潰え、水に落ちて死んだ者は半数を超え、博囉特穆爾は捕らえられた。かえって国珍のために言葉を飾って奏聞した。
  • 朝廷はあらためて達実特穆爾らを黄巌に遣わして国珍を招いた。国珍兄弟はみな上陸して列を作って拝し、退いて民家に留まった。紹興総管の台哈布哈は壮士に襲って殺させようとしたが、達実特穆爾は「私は詔を受けて招降しに来た。公らは勝手に事を行おうというのか」と述べ、取りやめた。そして台哈布哈に檄して海辺へ来させ、その徒党を解散させ、国珍兄弟に等差をつけて官を授けた。

至正十一年十月(1351年)

  • 蘄州の人・徐寿輝らが兵を挙げ、蘄水県および黄州路を攻め落とした。寿輝は自ら皇帝と称し、国号を天完、元号を治平と改め、鄒普勝を太師とした。
  • 饒州を攻め落として魏中立を捕らえ、信州を陥れて于大本を捕らえた。二人とも屈せず、ともに死んだ。

至正十二年正月(1352年)

  • 徐寿輝の兵が漢陽を陥れ、そのまま武昌を陥れ、行省丞相の威順王・科綽布哈らは城を棄てて逃げた。
  • 寿輝の兵はさらに安陸府を陥れ、知府の綽羅は戦って勝てず死んだ。沔陽を攻めると推官の兪述祖が戦って敗れ捕らえられたが屈せず、寿輝は怒って手足を裂いた。

至正十二年二月(1352年)

  • 徐寿輝の兵が九江を攻めた。右丞の博囉特穆爾はちょうど江に駐屯していたが、風聞を聞いて夜のうちに逃げた。
  • 総管の李黼は郷村に檄して木石を険所に集めさせ、賊の帰路を塞いだ。黄梅主簿の伊遜特穆爾が賊を撃ちたいと願い出、黼はともに出撃して賊兵を大破し、殺し捕らえた者は二万余に及んだ。
  • 黼は「賊は陸で不利なら必ず舟で迫って来る」と言い、長い木材数千本の先端に鉄の錐を被せ、沿岸の水中にひそかに立てさせた。賊の舟数千艘が流れに乗って鬨の声を上げて至ったが、木の杭に当たって動けなくなった。黼が火矢を放って射ると、焼け死に溺れ死ぬ者は数え切れなかった。
  • 当時、東は淮甸から西は荊湖まで、守臣はしばしば城を棄てて逃げ、黼だけが孤城を守った。内外の援は絶え、賊の勢いはいよいよ盛んで、兵を進めて城に迫った。分省平章の托卜堅布哈は北門から逃げ出した。
  • 黼は兵を率いて城壁に登った。賊はすでに西門を焼き、弩を張って射かけ、転じて東門を攻めた。黼は急ぎ救援に向かったが、城はすでに破られ賊兵が入っていた。なお市街戦を続けたが、力及ばず、剣を振るって「私を殺せ。百姓を殺すな」と叱咤した。賊が刺して馬から落とし、兄の李冕、子の秉昭とともに死んだ。州の民はこれを聞いて哭声が地を震わせ、棺を用意して葬った。当時、冕の住んでいた潁でも賊に殺された。事が奏聞され、黼に隴西公を贈り、文忠と諡した。

至正十二年三月(1352年)

  • 台州路達嚕噶斉の台哈布哈が方国珍と澄江で戦って死んだ。
  • 当時、朝廷は徐州を征していて、江浙に水軍を募って北の大江を守らせた。国珍は疑いを抱いて再び一党を率いて海に入った。台哈布哈は義士の王大用を遣わして諭させたが、国珍は拘留して帰さず、一党の陳仲達に降伏の交渉を往来させた。
  • 台哈布哈は舟を用意して受降の旗を立て、潮に乗って澄江を下ったが、砂に乗り上げて動かなくなった。国珍と会おうとするとき、仲達を呼んで前の議を確かめた。仲達の目が動き気が抜けたのを見て、台哈布哈はその心変わりを察して自ら斬り、ただちに前へ出て賊の船に迫って奮撃した。賊が群がり来て抱えて自分の船に引き込もうとすると、台哈布哈は目を怒らせて叱り、刀を奪って賊を殺した。賊が槊を揃えて刺し、首に当たって死んだが、なお立ったまま倒れなかった。賊はその屍を海に投じた。事が奏聞され、魏国公を追贈し、忠介と諡した。

至正十二年七月(1352年)

  • 徐寿輝が項普略を遣わして兵を率いて徽州・饒州の諸州を掠め、そのまま昱嶺関を犯して杭州城を攻めた。城中は突然のことで備えがなく、参政の樊執敬はにわかに馬に乗って衆を率いて出たが、途中で賊に遭い、力を尽くして斬りかかったが槍に当たって死んだ。
  • 当時、董搏霄は江浙平章の嘉琿に従って安豊を征し、勝ちに乗じて濠州を攻めていた。折しも朝廷が軍を移して江南を援けるよう命じたので、江を渡って徳清に至ったが、杭州はすでに陥落していた。
  • 嘉琿が策を問うと、搏霄は「賊は杭城の子女と玉帛を見て必ず欲を恣にし、備えをする暇もあるまい。急いで攻めるべきだ。もし湖州に退いて守り、賊に鋭気に乗じて京口に出させれば、江南はもう救えない」と述べた。嘉琿はためらって決せず、諸将も出撃を渋った。搏霄は「公は江浙の宰相である。方面がすでに陥ちたのに今取らなければ、誰がその咎を負うのか」と述べ、剣を抜いて諸将を見回し「宰相はここにおられる。あえて命を軽んじる者は斬る」と言った。
  • そこで兵を進めて杭州に迫った。賊が迎え撃つと、壮士を指揮して突進させ、諸軍も相次いで挟み撃ちにし、七戦して清河坊まで追撃した。賊は接待寺へ逃げ込み、その門を塞いで焼き、賊はみな死んだ。こうして杭州を回復し、まもなく余杭・武康・徳清も順次平定された。搏霄も交代して去った。
  • 徽州・饒州の賊がまた昱嶺関から於潜を侵したので、行省は搏霄を仮に参政として兵を率いて討たせた。搏霄はその日のうちに兵を率いて新渓を扼し、於潜まで追撃してその県を回復し、さらに昱嶺関を回復した。
  • 賊兵がまた大挙して来て千秋関を陥れた。搏霄は軍を動かさず、城下に伏兵を置いて火砲を授け、「旗が動くのを見たら発せ」と約束した。やがて賊がやや緩んだのを見て兵を進めて撃ち、伏兵は旗が動くのを見てことごとく発し、千秋関を奪い返した。
  • 賊はさらに独松・百丈・幽嶺の三関を攻めた。搏霄はまず兵で要路を守らせ、三道に分けて兵を合わせて賊の巣を衝き、勝ちに乗じて安吉を回復し、まもなく広徳を落とした。
  • 賊がまた徽州を犯したとき、十二里にわたる霧を起こせる道士がいた。搏霄は伏兵を置いて撃ち、やがて妖霧が晴れると伏兵がみな起こり、賊は大いに潰えて斬首は数万に及び、徽州はまた平定された。

至正十二年九月(1352年)

  • 余闕を淮西宣慰副使として安慶を守らせた。当時、賊兵は日ごとに盛んで、闕が着任して十日で賊が至ったが撃退した。
  • そこで有司と諸将を集めて屯田と戦守の策を議し、周囲に堡砦を築き、精兵を選んで外を守らせ、中で耕作させた。濠を浚え城壁を高くし、外を大きな土手と三重の深い塹で囲み、南から江の水を引き入れ、周囲に木を植えて柵とし、城上の四面に飛楼を築いて内外を堅固にした。まもなく都元帥に昇った。
  • 広西の苗軍五万が元帥の阿爾斯蘭に従って江沿いに下って廬州に至った。闕は文書を送って苗蛮に中国をうかがわせるべきでないと述べ、詔により阿爾斯蘭は引き返した。苗兵で境内で乱暴を働く者はただちに捕らえて処刑したので、厳しくて誰も犯せなかった。当時、群盗が四方を取り巻いていたが、闕はその中にあって左右を差配し、屹立して江淮の一大保障となった。

至正十二年十一月(1352年)

  • 江西行省平章政事の桑節が趙普勝を撃ち、湖口で戦って敗れて死んだ。
  • 桑節ははじめ南台御史大夫であったが、執政に憎まれて湖広平章に出され、ここに至って江西に移された。桑節は馬を飛ばして赴任し、江東に至ったところであらためて江州を守るよう詔が下った。
  • 当時、江州はすでに陥落し、趙普勝・周驢らが池陽・太平の諸郡に拠って百万と号していた。桑節は兵を募って三千人を得、銅陵へ向かって落とし、驢を捕らえ、船六百艘を奪って軍声は大いに振るった。そのまま池州を回復し、兵を分けて石埭などの県を攻め、進んで清水湾に拠ってまた大破した。
  • 賊は久しく安慶を囲んでいたが、風聞を聞いて営を焼いて逃げた。そこで進んで湖口県を回復し、江州を落として兵を留めて守らせ、王惟恭に小孤山に柵を立てさせ、桑節自らは番陽口に拠って江西の要衝を押さえ、回復を図った。
  • しかし日が経っても援軍が来ず、賊が大艦で攻めて来て、葦や竹を編んで上下流を塞いで火を放った。桑節は兵を率いて力戦したが、衆はほとんど死に尽くし、桑節ひとり堅く座して動かず、流れ矢に当たって倒れた。賊はかねてその名を聞いていて害するに忍びず、密室へ運んだ。蘇生すると列を作って拝し食を供したが、桑節は叱りつけ、七日目に自ら力を振り絞って起き、北に向かって再拝し「臣の力は尽きました」と言って絶命した。桑節は河西の人で楚斯結の子である。

至正十三年五月(1353年)

  • 泰州白駒場の亭民・張士誠およびその弟の士徳・士信が兵を挙げて泰州を陥れた。
  • 淮南行省は知府の李斉を遣わして招降させたが留め置かれた。久しくして賊の首領が互いに殺し合い、はじめて斉を帰らせた。士誠はまもなく参政の趙璉を殺し、興化県を陥れた。
  • 行省は左丞の偰哲篤に高郵を鎮めさせ、斉を出して甓社湖を守らせた。折しも数人の賊が鬨の声を上げて入城し、省・憲の官はみな逃げた。斉が戻ると城門はすでに閉ざされ、士誠はそのまま高郵に拠って誠王と称し、国号を大周、元号を天祐と建てた。
  • まもなく赦す詔が出たが、使者は入れなかった。賊は偽って「李知府に来てもらえば命を受ける」と言った。行省が斉に強いて行かせると、着くや斉を獄に下した。斉は百方に弁じたが、士誠にはもとより降る意思がなかった。士誠が斉を呼んで跪かせようとすると、斉は「私の膝は鉄のようだ。どうして賊に屈しよう」と叱った。士誠は怒って引き倒させ、槌でその膝を砕いて切り刻んだ。
  • 当時の評判では、大科の三傑である李黼・台哈布哈および李斉は、いずれも科挙の名に恥じなかったという。

至正十三年十月(1353年)

  • 方国珍兄弟を各路の治中としたが、受けなかった。
  • これより先、江浙左丞の托里特穆爾および南台侍御史の尊達実哩を遣わしてあらためて国珍を招諭させた。その後、二人が国珍はすでに降ったと報告し、五品の流官を授けてその船を納めさせ徒党を解散させるよう請うた。そこで国珍を徽州路治中、国章を広徳路治中、国英を信州路治中とした。国珍らは疑い恐れて命を受けず、なお船千艘を擁して海路に拠り、糧運を絶った。あらためて江浙右丞の阿哩衮実克らに兵を率いて討たせた。

至正十三年十二月(1353年)

  • 江浙行省の布延特穆爾および西寧王の雅克哈尚らが軍を合わせて蘄水の徐寿輝を討ち、寿輝は敗走し、その官属四百人を捕らえた。
  • もともと徐寿輝の将・王善が羅源を陥れ、そのまま福州を攻めた。連江県巡検の劉濬は壮士を募り、子の健とともに幾度も力戦したが、濬は矢に当たって落馬し、健が馬を下りて助け起こしたところ二人とも捕らえられた。濬は賊を罵って死に、健も死をもって拒んだので、善は義として釈し、父の屍を埋葬させた。
  • 健は帰って帥府に兵を請うて復讐しようとしたが聞き入れられなかった。そこで家財をすべて散じて決死の士百人を結び、職人や商人、乞食に扮して賊中に入り、真夜中に火を放って大いに騒いだ。賊は驚き乱れて同士討ちとなり、健は父を殺した者を自ら斬り、あわせて善を捕らえて帥府に献じた。事が奏聞され、濬に行省検校を贈り、健に古田令を授けた。

至正十四年六月(1354年)

  • 張士誠が揚州を侵し、達実特穆爾の兵は敗れて諸軍はみな潰えた。士誠はまもなく盱眙および泗州を陥れた。

至正十五年春正月(1355年)

  • 徐寿輝が将の倪文俊を遣わしてふたたび沔陽を破った。威順王の科綽布哈は子の報恩努らに元帥の阿爾斯蘭とともに水陸から進んで討たせたが、漢川に至ると水が浅く、文俊が火竹で船を焼いたため兵は敗れ、報恩努は殺された。

至正十五年三月(1355年)

  • 徐寿輝の兵が襄陽を破った。

至正十五年五月(1355年)

  • 倪文俊が沔陽からふたたび中興路を破り、元帥の多爾済巴勒が戦死した。

至正十六年正月(1356年)

  • 倪文俊が漢陽に都を建て、徐寿輝を迎えて拠らせた。まもなくまた常徳・澧州の諸路を陥れた。

至正十六年二月(1356年)

  • 張士誠が平江路を陥れて拠り、隆平府と改め、そのまま湖州・松江・常州の諸路を陥れた。
  • はじめ士誠に降る意思があると伝える者があり、朝廷は烏瑪喇と孫撝に詔を持たせて諭させた。士誠は二人を一室に閉じ込めて降伏を迫ったが、撝は罵り続けた。士誠が平江に移ると、撝は士誠の部将である張茂先と謀り、人を遣わして鎮南王と日を決めて進兵し高郵を回復しようとしたが、事が漏れて殺された。

至正十六年三月(1356年)

  • 方国珍がふたたび降り、海道漕運万戸に任じ、その兄の国璋を衢州路総管とした。

至正十六年七月(1356年)

  • 張士誠が兵を遣わして杭州を破り、江浙丞相の達実特穆爾は逃げ、平章の尊達実哩は力戦して死んだ。
  • これより先、達実特穆爾の兵はたびたび敗れ、論者は苗軍が使えると言った。そこで宝慶から土官の楊旺扎勒を招き、淮南に至って賊を殺し、功によってたびたび昇進して江浙行省参政となっていた。
  • ここに至って士誠の兵が杭州を破り、達実特穆爾の兵が富陽に入ると、旺扎勒は嘉興から苗軍および万戸の普賢努を率いて士誠の兵を破ってその城を回復し、達実特穆爾も戻った。
  • しかし苗軍はもとより規律がなく、思うままに掠奪し、通った所は何も残らなかった。達実特穆爾は旺扎勒を頼みにしていたので誰も禁じられず、旺扎勒はいよいよ恣となり、万事が旺扎勒の裁量で決まり、達実特穆爾は出来上がった案文に署名するだけであった。
  • この年、淮安城が陥落し、廉訪使の楮布哈が死んだ。楮布哈は群盗の間にあって淮安を守ること五年、大小数百戦を経て、糧が尽きると草木・螺・蛤・魚・蛙・烏・燕から靴の皮・鞍の敷物・革の弓袋の筋まで食い尽くし、家を壊して薪とし、人はみな野宿した。城が陥ちても布哈はなお西門に拠って力戦し、傷ついて捕らえられ、賊に切り刻まれ、子の巴噶も死んだ。

至正十七年八月(1357年)

  • 張士誠が嘉興を侵し、楊旺扎勒がこれを破った。士誠は書をもって降伏を約し、旺扎勒は受け入れようとしたが、達実特穆爾は士誠の反覆が信じられぬとして許さなかった。旺扎勒が強く勧めたので、制を承けて江浙廉訪使の周伯琦を仮に行省参政として平江に赴かせ招諭させた。
  • 士誠ははじめ王爵を要求したが許されず、さらに三公を請い、旺扎勒も強く取りなした。達実特穆爾は降伏を得たさに、士誠に太尉、弟の士徳に淮南平章、士信に同知枢密院事を授け、その一党にも等差をつけて官を授けた。
  • こうして朝廷は士誠の招安を達実特穆爾の功として太尉を加えた。

至正十七年九月(1357年)

  • 徐寿輝の将・陳友諒が倪文俊を殺してその軍を併せ、自ら平章と称した。

至正十八年正月(1358年)

  • 陳友諒が安慶を破り、淮南行省左丞の余闕が死んだ。
  • これより先、余闕は安慶を固く守り、小孤山を防壁として頼み、義兵元帥の胡巴延に水軍を率いて守らせていた。友諒は上流から軍を率いてまっすぐ山下を衝き、巴延は四日四晩戦って勝てず逃げ帰った。賊は追って城下に迫り、闕は兵を遣わして防いだ。
  • まもなく饒州の賊が西門を攻め、友諒の兵がその隙に東門から城に登った。闕は決死の士を選んで奮撃して破った。敵兵はいたく憤り、軍を合わせて柵を立て飛楼を築いて攻めた。闕は兵を分けて敵を防ぎ、昼夜休む間もなかった。
  • ここに至って池州の趙普勝が東門に、友諒が西門に、饒州の兵が南門に軍した。闕は徒歩で戈を提げて士卒に先んじ、部将を分け遣わして三門の兵を督させ、自らは孤軍で血戦して斬首は数え切れなかったが、闕自身も十余か所の傷を負った。正午に城が陥ちて火が起こり、闕はもはや及ばぬと知って刀を引いて自ら首を刎ね、清水塘に落ちて死んだ。
  • 妻の蔣氏および妾の伊伯氏・耶律氏、子の徳臣、娘の安安、甥の福童もみな井戸に身を投げて死んだ。同時に死んだ者には守臣の韓建の一家がおり、住民で賊に従うまいと誓って焼け死んだ者は千を数えた。名の知れた者としては、万戸の李宗可・紀守仁・陳斌・金承宗、経歴の段桂芳、都事の特穆爾布哈、千戸の盧廷玉・葛延齢・邱卺・許元琰、奏差の烏徳美、百戸の黄寅孫、安慶推官の黄図嚕岱、経歴の楊恒、知事の余中、懐寧県尹の陳巨済がいる。事が奏聞され、闕に平章政事を贈り、豳国公を追封し、忠宣と諡した。

至正十八年四月(1358年)

  • 陳友諒が龍興を破った。当時、和尼斉が左丞として洪都を守っていた。旧来の帥である多通はその将の章巴延布哈・雅克布哈に城を守らせてかなりの功があったが、和尼斉は嫉んでこれを妨げた。城が陥ちると和尼斉は逃げ出し、多通は撫州へ走って挙兵を謀ったが追手に殺された。友諒は江西の諸路をことごとく陥れた。

至正十九年六月(1359年)

  • 陳友諒が一党の王奉国を遣わして信州を侵した。巴延布哈徳済が衢州から救援に赴き、その兵を破って走らせた。当時、鎮南王の子・大聖努が兵を城中に屯していて、門を開いて迎え入れた。巴延布哈は城に登って四方を見渡し、賊を破ると誓った。
  • 数日後、賊がまた攻めて来た。そこで兵を三つに分けて城を出て奮撃し、斬首数千、また大破した。友諒の弟の友徳が木柵を立てていよいよ激しく攻め、あわせて使者を送って降伏を勧めた。巴延布哈徳済は「汝は私を誘いに来たのか。私の首は斬れても足は動かせぬ」と言い、その罪を数え上げて斬った。
  • これにより昼夜激戦となり、糧は尽き矢も尽きたが気は衰えなかった。城中は草の芽・茶・紙を食い、靴の底を削り、鼠を掘り雀を捕り、老弱を殺して食べた。巴延布哈はたびたび出兵して賊を破ったが、奉国は地下道を掘って昼夜休まず攻め、十日余りで城はついに陥ちた。巴延布哈徳済は大聖努および部将の哈喇丹・蔡誠・蔣広とともにみな戦死した。
  • はじめ巴延布哈徳済が救援に赴くとき、母の鮮于氏に「私は今後、母上にお仕えできません」と告げた。母は「お前が忠臣となるのだ。私に何の悔いがあろう」と述べた。そこで子の額森布哈に母を奉じて間道から閩へ入らせ、江東廉訪司の印を行台へ送り、自らは兵を率いて信州へ向かったのである。鮮于氏は太常典簿の鮮于枢の娘である。

至正十九年十二月(1359年)

  • 陳友諒が主君の徐寿輝を江州に移して都とし、自ら漢王と称した。
  • もともと徐寿輝は、友諒が龍興を破ったのでそこへ都を移そうとした。友諒はその到来が自分に不利だと忌んで従わなかった。ここに至って寿輝は兵を率いて漢陽を発し南下して江州に至った。友諒は表向き出迎えながら城の西に伏兵を置き、寿輝が入るのを待って門を閉じ、伏兵を放ってその部下をことごとく殺し、寿輝だけを残して江州を都として住まわせた。そして自ら漢王と称し、王府を立てて官属を置いた。実権はことごとく友諒に帰し、寿輝はただ虚位を擁するだけとなった。

至正二十年五月(1360年)

  • 陳友諒が主君の徐寿輝を弑した。
  • これより先、友諒は水軍を率いて太平を犯し、寿輝を連れて行った。太平が陥ちると急いで簒奪を謀り、采石の舟中で人を寿輝の前へ遣わして事を申し上げさせ、壮士に鉄の椎を持たせて背後から打たせ、その首を砕いた。寿輝は死に、友諒は采石の五通廟を行殿として皇帝と称し、国号を漢、元号を大義と改めた。なお鄒普勝を太師、張必先を丞相とした。臣下は江岸の草むらに立って礼を行い、折しも雨が降って、儀礼らしきものは何一つなかった。

至正二十三年九月(1363年)

  • 張士誠が自ら呉王と称した。
  • 士誠は降ったとはいえ、城池・甲兵・銭穀はみな従来どおり自ら押さえていた。またかねて楊旺扎勒を忌んで除こうと図り、達実特穆爾も旺扎勒の驕慢で制しがたいのを厭い、ひそかに計を定めて兵を挙げて包囲した。旺扎勒とその弟の巴延はみな自殺した。士誠はそのまま兵を遣わして杭州城に拠り、朝廷はその弟の士信を江浙行省平章事とした。方面の大権はことごとく張氏に帰し、達実特穆爾はただ虚名を擁するだけとなった。
  • ここに至って士誠は部下に自らの功徳を頌えさせて王爵を求めた。朝廷が許さないので、士誠はそのまま自ら呉王を称し、平江で宮室を造り官属を置いた。達実特穆爾は毒を飲んで死んだ。
  • この年、陳友諒は明の兵と戦って敗れ、流れ矢に当たって死に、国は滅んだ。士誠は至正二十七年にようやく滅び、方国珍もまた明に降った。