元史紀事本末小明王(韓林児)の擁立(小明王之立)

白蓮会の韓山童の子・韓林児が劉福通に擁立されて小明王となり、宋を称して各地の紅巾軍を号令した経緯を追う。順帝至正十一年五月(1351年)の潁州挙兵から至正二十六年(1366年)の韓林児の死まで十六年間。劉福通は汝寧・光州を陥れて十万を集め、亳州に都して龍鳳と改元し、毛貴・関先生らを三道に分けて山東・関中・晋冀を席巻した。しかし察罕特穆爾に汴梁を落とされて安豊に退き、福通は張士誠の将・呂珍に殺され、小明王も没した。

年表(16件)

順帝至正十一年五月(1351年)

  • 潁州の妖人・劉福通と蕭県の李二が兵を挙げた。
  • これより先、各地で群盗が蜂起して有司は制しきれず、そのうえ丁夫を徴発して河を開く工事を行ったので、民心はいよいよ愁い怨んで乱を思うようになった。
  • 韓山童という者があった。欒城の人で、祖父の代から白蓮会の焼香で衆を惑わし、永平へ流されていた。山童の代になって、天下は大乱となり弥勒仏が下生すると唱え、河南および江淮の愚民はこぞってこれを信じた。
  • 福通は杜遵道・羅文素・盛文郁・王顕忠・韓咬児とともに妖言を煽り、山童は実は宋の徽宗の八世の孫であり中国の主となるべきだと言った。福通らは白馬と黒牛を屠って天地に誓い、ともに挙兵して紅巾を目印とした。
  • 県の官が急ぎ捕らえにかかり、山童は捕らわれた。その妻の楊氏と子の韓林児は武安へ逃れた。ただ福通の一党は勢いが盛んで制しきれず、朝廷は同知枢密院の図沁に兵で撃たせた。
  • 福通は潁州を破ると朱皋に拠り、羅山・上蔡・真陽・確山の諸県を攻め、まもなく武陽・葉県を犯し、汝寧府および光州・息州の二州を陥れ、衆は十万に達した。
  • 李二は芝麻李と号し、やはり焼香で衆を集め、その一党の趙均用・彭早住とともに徐州を攻め落として拠った。

至正十一年九月(1351年)

  • 劉福通の兵勢が日ごとに盛んになったので、右丞相の托克托は弟の御史大夫・額森特穆爾を知枢密院事とし、衛王の庫斉格爾とともに諸衛の軍十余万を統率して討たせるよう奏した。上蔡を回復し、その一党の韓咬児を捕らえて誅した。

至正十二年二月(1352年)

  • 定遠の郭子興は、汝寧・潁州で兵が起こって諸郡が騒動しているのを見て、一党の孫徳崖らとともに挙兵し、自ら元帥と称して濠州を攻め落として拠った。
  • 徹爾布哈が兵を率いて濠城を回復しようとしたが、恐れて進めず、ひたすら良民を捕らえて盗賊と称して賞をせしめた。これにより人心は騒然として落ち着かず、流言が日ごとに広がった。

至正十二年三月(1352年)

  • 額森特穆爾の軍が沙河で潰えた。当時、額森特穆爾は沙河に駐屯していたが、軍が夜に驚いて武器をことごとく棄てて北の汴梁へ逃げた。散った兵を集めて朱仙鎮に退いて屯した。朝廷は額森特穆爾が兵を知らぬとして平章の曼済を代わりに遣わした。

至正十二年九月(1352年)

  • 右丞相の托克托が自ら軍を率いて徐州に至り、西門を攻めた。賊が出て戦ったが奮撃して破り、芝麻李は逃げ去り、趙均用・彭早住は濠州へ走った。追ってその将数十人を捕らえ、そのまま城を屠った。まもなく托克托を召して朝廷に還らせた。

至正十五年二月(1355年)

  • 劉福通が碭山の夾河から韓林児を迎えて皇帝に立て、小明王と号し、亳州に都を建て、国号を宋、元号を龍鳳と改めた。母の楊氏を皇太后とし、杜遵道・盛文郁を丞相、劉福通・羅文素を平章、劉六を知枢密院事とし、太清宮の材を取り壊して宮闕を建てた。
  • 福通は遵道が権を専らにするのを憎み、甲士に撲殺させ、自ら丞相となった。

至正十五年十一月(1355年)

  • 達実巴図爾が進んで劉福通を撃ち、長葛で戦って大敗し、将士はみな潰走した。中牟に至って散った兵を集めて屯していたところ、劉哈喇が兵を率いて救援に来て福通の兵を大破し、ふたたび汴梁に駐屯した。

至正十五年十二月(1355年)

  • 達実巴図爾が太康で劉福通を大破し、そのまま亳州を囲んだ。小明王は安豊へ逃れた。

至正十七年二月(1357年)

  • 劉福通が一党の毛貴を遣わして膠州を陥れ、倪文俊が陝州を陥れ、李武・崔徳らが商州を破って武関を攻め、まっすぐ長安へ向かい、兵を分けて同州・華州などを掠め、三輔は震え恐れた。まもなく察罕特穆爾に敗れて退いた。

至正十七年六月(1357年)

  • 劉福通が汴梁を攻めた。その兵は三道に分かれ、関先生・破頭潘・馮長舅・沙劉二は晋・冀へ、白不信・大刀敖・李喜喜は関中へ向かい、毛貴は山東に拠って、その勢いは大いに振るった。

至正十七年十二月(1357年)

  • 太尉の達実巴図爾が軍中で没した。
  • 当時、劉福通が曹州・濮州・大名・衛輝の諸路を攻め落とし、達実巴図爾は兵を率いてこれを撃った。詔により知枢密院事の達爾瑪実哩を援軍に遣わし、兵を雷沢・濮州に分けて福通を防がせたが、達爾瑪実哩は戦死し諸軍は大いに潰えた。
  • 達実巴図爾は石村に退いて駐屯した。朝廷は賊を弄んで機を失っていると疑い、使者が相次いで戦いを促した。敵はこれを察知して達実巴図爾が通好を求める偽の書状を作って諸路に落とし、使者が果たしてこれを得て奏上した。達実巴図爾はこれを聞いて憂憤のうちに死んだ。

至正十八年五月(1358年)

  • 劉福通が汴梁を攻め、守将の珠展は逃げ出した。福通はその城に入って拠り、安豊から主君の韓林児を迎えて住まわせ、都とした。

至正十八年秋七月(1358年)

  • 懐慶路の守将・周全が叛いて劉福通に付いた。
  • 当時、察罕特穆爾は洛陽に駐屯し、拝特穆爾を遣わして盌子城を守らせた。周全が戦いを挑み、拝特穆爾は殺された。そのまま懐慶の民をことごとく駆り立てて汴梁へ入れた。
  • 福通は周全を遣わして洛陽を攻めさせたが、守将が城に登って大義をもって全を責めると、全は恥じて謝し兵を退いた。福通は全を殺した。

至正十九年八月(1359年)

  • 察罕特穆爾が汴梁を落とし、劉福通はふたたび主君の韓林児を連れて安豊へ走って拠った。

至正二十三年二月(1363年)

  • 張士誠の将・呂珍が安豊に入り、劉福通を殺してその城に拠った。

至正二十六年十二月(1366年)

  • 小明王の韓林児が没した。