元史紀事本末宗廟の祭祀の制度(廟祀之制)

元の太廟の制が整えられていく経過。蒙古の巫祝による祭享から始まり、中統四年(1263年)の燕京の太廟建立、至元三年(1266年)の八室と諡号・廟号の制定を経て、至元十七年(1280年)に大都の新廟へ神主を遷した。以後、裕宗の袝廟、武宗の親祀と金鋳の神主、英宗の四孟親享と廟室の増築、泰定元年(1324年)の劉致の議による昭穆の室次の是正が続く。順帝至正三年(1343年)に帝が寧宗の室で拝すべきかを問うところまでを扱う。

年表(17件)

世祖至元十七年十二月甲午(1280年)

  • はじめて太祖以下の神主を太廟に遷した。ここに至るまでの経緯は以下のとおりである。
  • 国の習俗では、祖宗を祭享する礼として牲を割き馬乳を供え、蒙古の巫祝が祝詞を述べた。
  • 帝の即位の元年、中書省に神主を設け、登歌の楽を用い、筆且斉を遣わして祭らせた。筆且斉とは書記を司る者の意である。
  • 中統二年、中書の署から神主を聖安寺の瑞像殿に遷した。
  • 中統四年、燕京に太廟を建てるよう詔した。至元元年冬、神主を太廟に安置した。当初は太廟を七室とする制を定め、皇祖・皇祖妣を第一室、皇伯考・伯妣を第二室、皇考・皇妣を第三室、皇伯考・伯妣を第四室、皇伯考・伯妣を第五室、皇兄・皇后を第六室、皇兄・皇后を第七室とした。室はすべて西を上位とし、順に東へ並べた。
  • 至元二年冬、太廟で享祀し、皇祖を尊んで太祖とした。
  • 至元三年秋、はじめて八室を作り祏室を設けた。丞相の安図・巴延が、祖宗の世数・尊謚・廟号・配享の功臣、四世の増祀、各廟の神主、七祀の神位、法服・祭器などの事をみな時をおいて定めるべきだと述べ、そこで平章政事の趙璧らに合議を命じて諡と廟号を定め、八室とした。烈祖神元皇帝と皇曽祖妣宣懿皇后を第一室、太祖聖武皇帝と皇祖妣光献皇后を第二室、太宗英文皇帝と皇伯妣昭慈皇后を第三室、皇伯卓沁と皇伯妣巴図徹爾黙色を第四室、皇伯考察罕台と皇伯妣伊蘇婁を第五室、皇考睿宗景襄皇帝と皇妣荘聖皇后を第六室、定宗簡平皇帝と欽淑皇后を第七室、憲宗桓粛皇帝と貞節皇后を第八室とした。この年、神主を祏室に安置し、毎年冬に祀ること従来の礼のとおりとした。
  • 至元四年、はじめて一年十二か月それぞれに新しい時の物を薦めることを定めた。
  • 至元六年冬、時享が終わったのち、あらためて国師の僧に太廟で七昼夜の仏事を修めさせた。はじめて木製で金の表を貼った牌位十六を作り、大きな榻と金の椅子を設けて祏室の前に安置した。これが太廟で仏事を行う始まりである。
  • 至元十三年、金の神主に改めた。太祖の主には「成吉思皇帝」、睿宗の主には「太上皇伊克諾延」と題し、皇后はみな名を題した。
  • 至元十四年秋、大都に太廟を建てるよう詔した。博士は、古の廟制はおおむね都宮に別殿を設ける形であり、西漢もそれぞれ廟を立てたが、東都では中興にあたり倹約を尊んだために七室を同じ堂に置き、後世これを改められなくなった、これは礼にかなわぬと述べ、古今の廟制を図に描き説明を添えて奏した。
  • そしてこのたび太廟への遷座を告げ、承旨の和爾果斯、太常卿の塔爾楚・托果斯らに命じ、祏室内の栗主八位、および日月山の板位、聖安寺の木主をともに遷し、太祖・睿宗二室の金主を新廟に安置して大いに享祀し、旧廟を撤去して壊した。

至元十八年春(1281年)

  • 博士の李時衍らが、歴代の廟制はいずれも異なる、祖宗を尊ぶなら都宮別殿の制に従うべきであり、倹約を尊ぶなら同堂異室の制に従うべきだと述べた。
  • 尚書の段諾海および太常の礼官が「はじめ七廟を議した際、正殿・寝殿・正門・東西門はすでに建てているので、東西の六廟は改めて造る必要がない。残りは太常寺の新しい図に依って建てるべきだ」と奏し、こうして前を廟、後を寝とし、廟を七室に分けた。

至元二十一年三月(1284年)

  • 太廟の正殿が完成し、神主を安置した。

至元三十年冬十月(1293年)

  • 明孝太子の主を廟に袝した。これより先、皇太子の珍戩が没していた。
  • 太常博士の議では、前代に太子が薨じたとき、梁の武帝は統に昭明と諡し、斉の武帝は長懋に文恵と諡し、唐の憲宗は寧に恵昭と諡し、金の世宗は允恭に宣孝と諡した。また別廟を建てて神主を奉じ、中祀に准じたという。これに従い、明孝太子と諡し、主は金で作った。
  • ここに至って太廟に袝し、後に帝号を追尊して廟号を裕宗とした。

成宗大徳元年(1297年)

  • 太廟の享祀に馬を用いることを制した。

成宗大徳十一年(1307年)

  • 武宗が即位し、皇考を皇帝に追尊して廟号を順宗とした。太祖の室を中央に、睿宗を西の第一室、世祖を西の第二室、裕宗を西の第三室、順宗を東の第一室、成宗を東の第二室とした。

武宗至大二年正月(1309年)

  • 尊号を受けたことにより太廟に恭しく謝した。これが親祀の始まりである。

武宗至大二年十二月(1309年)

  • 自ら太廟で享祀し、玉冊・玉宝を奉じて、太祖聖武皇帝に「法天啓運」、光献皇后に「翼聖」、睿宗景襄皇帝に「仁聖」、荘聖皇后に「顕懿」の尊謚を加えた。
  • 旧制では金の表を貼った神主を櫝に納めて両脇に置いていたが、これ以後は主をすべて金で鋳造し、金表の形式に倣った。

英宗至治元年正月(1321年)

  • はじめて四孟月の時享を自ら太廟で行った。
  • これより先、延祐七年冬十月、帝は太常の礼官と中書・翰林・集賢などに親祀の礼制を議させ、「これは遠祖を追い本に報いる道である。朕が労するからといって省いてはならぬ。すべて典礼に従え」と述べた。十一月、帝は自ら太廟に謝し、法駕を備え袞冕を着けて礼を行い、仁宗の室に至ると咽び泣いて涙を流し、左右も感動しない者はなかった。
  • ここに至って四孟の親享の礼を行い、群臣に「朕は祖宗の大業を継ぎ、朝から晩まで慎み恐れているが報いる術がない。年に四度の祀りを人に代行させては、そこに在すがごとき誠を尽くせず、実に心安からぬ。今より毎年必ず自ら祀り、朕の生涯を終えよう」と述べた。

英宗至治元年五月(1321年)

  • 中書省の臣と礼官が上言した。前代の廟の形式は数が一定せず、晋は兄弟を同じ一室とし、正室を十四間に増やして東西各一間を設けた。唐は九廟、のち十一室に増やし、宋は十八室まで増やして東西の夾室各一間に祧主を蔵した。今、太廟は八室に分かれているが、兄弟を一世とすればわずか六世にすぎない。世祖が建てたのは前廟後寝の形だが、先年に寝殿が火災に遭った。今の殿を寝とし、前殿十五間を作り、中央三間を通して一室として太祖の神主を奉じ、残りを順に室とすれば、情と文が適切に整うと請い、容れられた。

英宗至治三年六月(1323年)

  • 太廟の夾室について議定した。当時、太廟の夾室に定まった制がなかったので、詔により台・院の礼官に議定させた。
  • 博士の議は次のとおりである。爾雅に「室に東西の廂があるのを廟という」といい、注に「夾室と前堂は同じ」とある。礼に「西夾は南向き」とあり、注に「西廂は夾室」とある。これが東西夾室の正文である。賈公彦は「室に東西の廂があるのを廟といい、その夾はみな序にある」という。つまり夾とは今の耳房のようなものだが、その制度は伝わっていない。東晋の太廟は正室十六間、東西の儲各一間で計十八であった。儲というのは夾室のことではないか。唐の貞観の故事では、遷した廟の主を夾室の西壁の南北三間に蔵した。また宋の哲宗も東夾室に安置したことがあり、後に一室を増築したが夾室は旧のままであった。つまり唐宋の夾室と諸室の制度には大きな差がない。五帝は楽を沿襲せず、三王は礼を襲わなかった。今の廟制はみな古に合わないのだから、一時の便宜をとるべきである。今の廟十五間、南北六間・東西二間のうち、唐の南北三間の制に准じて、棟まで積み上げて三間とし、壁は紅泥を塗って東西の序に准じ、南向きに門を作って今の室戸の制のようにし、前を空けて廂に准じる。これがいわゆる夾室の前堂である。古にはすべて合わないが、今の事には適う——と。これに従った。

泰定帝泰定元年正月(1324年)

  • 仁宗および慈聖皇后の神主を安置した。これより先、盗賊が太廟に入り、仁宗と皇后の金主を盗んだので作り直させ、ここに至って安置した。太常の礼官は守りを失った罪により等差をつけて処罰された。

泰定帝泰定元年四月(1324年)

  • 太廟の室次をあらためて定めた。
  • はじめ博士の劉致が建議した。周制では天子は七廟で、三昭三穆、昭は東に、穆は西に位置する。父子と親疎の序を分けて乱れないようにするためである。本朝は唐宋の制を取って九世と定め、旧廟の八室を六世としたが、昭穆が分かれず父子が並んで坐しており礼経に合わない。
  • 新廟の制は十五間、東西二間を夾室とする。太祖の室が中央にある以上、唐宋の制には依れず、ただ昭穆で並べるべきである。父を昭、子を穆とすれば、睿宗は太祖の東に居って昭の第一世、世祖は西に居って穆の第一世、裕宗は東に居って昭の第二世となる。兄弟は同じ一世とするので、成宗・順宗・顕宗の三室はみな西に居って穆の第二世、武宗・仁宗の二室はみな東に居って昭の第三世となる。昭の後は左に、穆の後は右に居る。西は左を上位とし、東は右を上位とするからである。こうすれば昭穆は分明で秩序が整い、礼経に背かず万世の法とできる。
  • もし累朝の定制どおり室次に依って新廟に遷して安置すれば、顕宗が順宗の上に、順宗が成宗の上に昇ってしまう。礼から言えば、春秋で閔公に子がなく庶兄の僖公が代わって立ち、その子の文公が僖公を閔公の上に昇らせたのを、史は逆祀と称した。定公がその序を正して「先公に従祀す」と書かれている。僖公はなお位にあった君であるのに、それでも故君の上に居るべきでないとされた。まして位に即いたことのない者ならなおさらである。
  • 国家は右を尊ぶというが、古人が尚んだのは左のことも右のこともあり、もともと定まった制はない。古人は社稷を右に、祖宗を左にした。国家の宗廟も東方にある。宗廟を建てる方位は礼経に依っておきながら、宗廟の昭穆だけが礼経に応じないということがあろうか——と。
  • ここに至って中書省の臣が劉致の議をもとに上言した。太廟は太祖皇帝が中央に南向きし、睿宗・世祖・裕宗を順に西室に袝し、順宗・成宗・武宗・仁宗を順に東室に袝している。今、議する者は、国家が太廟を建てるにあたり古制に遵っており、古は左を尚ぶのに、今は尊い者が右に居って少し屈することになり、後世に示すべきものではないという。太祖が中央に南向きし、睿宗は左の一室に袝すべきで、世祖は右の一室に袝す。裕宗は睿宗の室の左に袝す。顕宗・順宗・成宗は兄弟なので順に世祖の室の右に袝す。武宗・仁宗も兄弟なので順に裕宗の室の左に袝す。英宗は成宗の室の右に袝す。臣らはその議がおおむね妥当と考え、室次を図に描いて献じる。陛下の御裁択を仰ぐ——と。これに従った。

文宗天暦元年(1328年)

  • 顕宗の室を毀つよう詔した。

順帝元統二年十月(1334年)

  • はじめて珍格皇后を武宗に配享する議が起こった。
  • 当時、三朝の皇后の昇袝について議が決していなかった。巴延が太常博士の逯魯曾に「先帝の朝で珍格皇后は子がないとして主を立てなかった。今立てるべきは明宗の母か、文宗の母か」と問うた。
  • 魯曾は「珍格皇后は武宗の朝ですでに宝冊を受けておられるので、文宗・明宗の二母はいずれも妾です。今、子がないという理由で主を立てず、妾である母を正后とするのは、臣でありながら先君の后を廃し、子でありながら先父の妾を追封することで、礼として許されません。昔、燕王の慕容垂は即位して母后を追廃し、生母を后に立てて先王に配享させ、万世の笑い者になりました。どうしてその過ちをまた踏むべきでしょう」と答えた。
  • 集賢学士の陳顥はもともと魯曾を憎んでおり、「唐の太宗は曹王・王明の母を后に冊立した。これも二后であって、なぜいけないのか」と言った。魯曾は「堯の母は帝嚳の庶妃です。堯が立って帝となっても、后に冊立して嚳に配したとは聞きません。皇上は大元の天子であられるのに、堯舜に法らず唐の太宗に法るのですか」と答え、衆はその議に服した。巴延もこれを是とし、こうして珍格皇后を武宗に配した。

後至元六年(1340年)

  • 文宗の室を毀つよう詔した。

至正三年冬十月(1343年)

  • 自ら太廟を祀った。帝は礼を行って寧宗の室に至り、「朕は寧宗の兄である。道理として拝すべきか」と問うた。太常博士の劉聞は「寧宗は弟であられますが、帝であった時に陛下は臣でした。春秋の時、魯の僖公は閔公の兄でしたが、閔公が先に君となりました。宗廟の祭で僖公が拝さなかったとは聞きません。陛下は拝されるべきです」と答え、帝は拝した。
  • 元の一代の宗廟の事の始終と沿革は、おおむね以上のとおりである。
  • 大祭祀ではとりわけ馬乳が貴ばれた。祭事があると、太僕司の挏馬官に命じ、飲料を司る者が革の袋に入れて奉送させた。その馬の牲は三牲とともに俎に載せて割いて供え、その供物はさらに籩豆とともに並べた。牲の盤を供え馬乳を灑ぐときには、蒙古の大祝が第一座に詣でて帝と后の神諱を呼び、祭る年月日、牲の数、斎の品物を述べて祝詞を唱え、順に各室に詣でて同様にした。
  • 礼が終わると、割いて供えた残りを南の櫺星門の外に撒いた。これを「抛撒茶飯」といった。国礼で行う事として、とりわけ重んじられたものである。