元史紀事本末律令の制定(補)(律令之定(補/))

元は建国以来、拠るべき成文法を欠き、諸官庁が金の律や場当たりの前例で裁いていた。何栄祖が「至元新格」を編んで頒行し、王暉・鄭介夫らが法なき弊を論じて律の制定を求めた。成宗が何栄祖に律令改定を命じたが完成せず、仁宗期の「風憲紀綱」を経て、英宗至治三年(1323年)に完顔納丹・曹伯啓らが「大元通制」三千五百三十九条を編んで頒行するまでの三十余年にわたる、元朝の法典整備の経過。

年表(5件)

世祖至元二十八年夏五月(1291年)

  • 「至元新格」を頒行した。元の初めには守るべき法がなく、諸官庁は訴訟の裁断に金の律を用いていたため、かなり厳酷に過ぎた。
  • 右丞の何栄祖は家が代々吏を業とし律令に習熟していたので、公規・治民・禦盗・理財など十の事項を一書にまとめ「至元新格」と名づけて奉った。帝は版木に刻んで頒行し、諸官庁に遵守させるよう命じた。
  • その後、王暉が政事の書を奉り、まず憲章を議して政体を一つにすべきだとして次のように述べた。法は治を助ける道具で、一日でも欠けてはならない。君が上でこれを操って永く成憲とし、吏が下でこれを承けて定式として遵えば、民は法を知って避けやすく犯しにくくなる。周の三典、漢の九章がそれである。
  • 今、国家が天下を有して六十年余になるのに、大小の法にまだ定まった議がない。内は憲台という天子の法を執る官、外は廉訪司や州郡の法吏、これらはみな理を司る官でありながら拠るべき法がない。医者がいて薬がないようなものである。刑を平らかにし断を議するにあたっても、その場その場の処置となり、酌量や准擬の食い違い、彼此の軽重の差を免れない。
  • 愚考するに、累朝の聖訓と中統以来今日までの条格を通して議定し、参酌して用い、百姓とともに新たに始めるべきである。そうすれば法に二つの門はなく軽重も適切となり、吏は拠るところを得、民は避けるところを知って天下は治まる——と。帝は「善し」と述べた。

成宗大徳三年春二月(1299年)

  • 何栄祖に律令の改定を命じた。栄祖は上書して「臣の定めたものは三十余条で、一条に三、四事を含むものもあります」と述べた。帝は「古今は事情が異なる。必ずしも旧に沿う必要はない。ただ今に適するものを取れ」と述べ、元老大臣を召し集めて聴かせた。頒行に至らぬうちに栄祖は没した。
  • その後、鄭介夫が上言した。その論旨は次のとおりである。
  • 律とは至公にして大いに定まった制である。皋陶が士となって五刑に明るく、穆王が書を訓えて罰は三千に属した。綱が挙がれば目も張り、井然として乱れない。ゆえに百官は法を奉じてそれぞれ守るところを知って越えず、百姓は法を見てそれぞれ避けるところを知って犯さない。三代より下、国家が政を立てるには必ず刑書を先とした。古今を通じて、法なくして一朝でも存立できた例はない。
  • 今、天下が奉じて行っているのは、引くべき前例はあっても守るべき法がなく、官吏はそれに乗じて欺くことができる。たとえば甲乙が争い、甲に力があればこの例を引き、乙に力があればあの例を引く。甲乙の力が拮抗すれば可否を決めず、年月を引き延ばして「撒放」と呼ぶ。天下の民は右往左往して拠るところがなく、初めに犯したことが最後にどう裁かれるか分からない。これは刑に陥れるものである。犯すなと強いても無理であろう。
  • 内は省・部、外は郡守が、格例を書き写して数十冊にもなるが、事に遭って決しがたければ旧例を探し、そこにも載っていなければその場で議擬する。これでは百官が守るところを知らない。民間でも、自ら見聞きした勅旨や条令を雑然と集めて編み、刊行して冊とし、「断例条章」「仕民要覧」と称して家ごとに一本を備え、基準としている。ためしに二十年の間の例を三十年前と比べれば半分は使えず、さらに十年の間の例を二十年前と比べればまた半分は行えない。これでは百姓も避けるところを知らない。
  • 孔子は「刑罰が当を得なければ民は手足の置き所がない」と言った。今、号令は一定せず児戯に等しい。一年二年で前後が異なることもあれば、綸言が下ったそばから消えてしまうこともある。そのため民間には「一に厳しく、二に緩み、三でやめる」という俗謡さえある。上に道を量る者なく、下に法を守る者なく、それで国が立つとは聞いたことがない。京都は四方の手本となる地でありながら法が行われない。まして四方の外はどうか。
  • たとえば先年、酒を禁じたが密造は家ごとに行われ、酒はいよいよ薄く値はいよいよ高く、民はいよいよ困窮した。牛の屠殺を禁じても密殺はかえって増え、都のお膝元でも十家のうち八家がそうである。姦盗殺人は必ず赦してはならぬのに、毎年図嚕木を放つので人心は法を犯すことを軽んじる。婚姻の聘財には官と庶、身分の高下に応じて鈔に換算する明確な例があるのに、今の嫁を出す家は金銭を重く求め、品官や富人では七十錠を要求することもあり、市井の家でも二、三十錠を下らず、さらに表裏・頭面・羊酒などの品を求める。奴婢を売り買いするのと変わらない。田宅の売買には旧来、まず親族、次に隣人という例があったが、今の民の産業は多くが権勢の家に渡り、親族も隣人も押さえられず、官府に訴え出ても争う力がなく、産業は豪家にあって結局その所有となる。この数例から天下のありさまはおよそ知れる。
  • 今、有司はみな刑名を重んじ、婚姻・田土・銭債はほとんど顧みない。百姓が冤を負っても上に訴えるところがないのは、官吏が賄賂を受ける道を開くことだと知らないのである。囚を審らかにし獄を決する官は郡邑に臨んでも、出来合いの案文を整えて形ばかりに一、二件を裁いて職を尽くしたつもりでいるが、死刑以下の刑事事件が甚だ多いことを知らない。路・県の官吏は欲が満たされぬうちは、上司の官が来ると聞くと囚徒を保釈して審録を受けさせ、済めばまた収監する。これらはみな法がないことの弊である。
  • あわせて役所が入り乱れ、事が一つに帰さない。羊十匹に牧者九人では従いようがない。天下はみな王の民であるのに、家ごとに政を立て人ごとに国を立ててよいはずがない。今、正宮の位下は中政院を立て、匠人は金玉府に属し、校尉は拱衛司に帰し、軍人は枢密院に属し、諸王の位下には宗正府・内史府があり、僧は宣政院、道は道教所、さらに宣徽院・徽政院・都護府・白雲宗の管する戸計があり、諸司の頭目が天下に満ちてそれぞれ管領し統属しない。訴訟があればみな関係先を集めねばならず、三、四の役所にまたがれば半年も無駄に文書をやり取りしても一度も揃わない。日を指して対決させても各司の管する者が互いに庇い合い、一年二年経っても事が終わらない。こうして強が弱を凌ぎ、衆が寡を虐げ、貴が賤を抑える。法なきことの弊はこれより甚だしいものはない。
  • 昔、先帝の時に律を修めるよう命じられたが成書に至らず、近ごろ議された大徳律は任じた者が適任でなく誤りがとくに多い。今、台閣・省部の内から経術に通じ治体に明るく時宜に練達した者を選び、古今の律文を斟酌し、先帝の建元以来の制勅・命令を参酌し、南北の風土に適したものを採って一代の令典を修め、有司に遵守すべきものを与え、生民に畏れ避けるべきものを知らせるべきである。国に常の法があり吏があえて侮らなければ、永く定制となり子孫万世の利となる。
  • 諸役所や投下の頭目は、銭糧と造作の管領を除き、大小を問わず訴訟で関係先を集める必要のあるものはすべて有司に扱わせるべきである。そうすれば政は一つに帰し、獄に長く滞る者もなくなる。これこそ物を成す簡明な手立て、太平の要道である——と。

仁宗皇慶元年三月(1312年)

  • 格例・条画のうち風紀に関わるものを分類して一書にまとめ、「風憲紀綱」と名づけるよう詔した。

英宗至治二年十一月(1322年)

  • 御史の李端が、世祖以来定められた制度を令として著し、吏が不正を働けないようにし、獄を治める者に遵うべきものを与えるべきだと述べ、容れられた。

英宗至治三年二月(1323年)

  • 完顔納丹・曹伯啓らに累朝の格例を編纂して増減させ、全三千五百三十九条を「大元通制」と名づけて天下に頒行した。
  • その書の大綱は三つで、一に詔制、二に条格、三に断例である。詔制は九十四条、条格は千百五十二条、断例は七百十七条である。五刑の目は、七十から五十七までを笞刑、六十七から百七までを杖刑とした。徒刑の年数と杖数は互いに関連させて加減した。塩の密売や盗賊は刑を執行したうえでさらに鐐をはめ、流刑は南人を遼陽以北の地へ、北人を南方の湖広の地へ移した。死刑には斬はあるが絞はなく、悪逆の極みには凌遅処死の法があった。
  • 伯啓はまた「五刑とは刑を五等に分けるものである。今、黥して杖して千里の外に徒役させれば百人に一人も生きて帰らない。これは一人が五刑をすべて受けるので、五刑がそれぞれ一人に及ぶという趣旨ではない。法を改めるべきだ」と述べた。丞相はこれを是としたが、結局実施されなかった。