元史演義群寇蕩平され明祖位に即き、順帝出走し元史終わりを告ぐ(第六 十回 群寇蕩平明祖即位 順帝出走元史告終)

擴廓帖木兒と関陝諸将の対立

  • 奇后母子に疎まれた擴廓帖木兒は河南へ出兵し諸将に檄を発したが、李思齊・張良弼・孔興・脫列伯ら関陝の諸将は独自の勢力を築いており、張良弼を筆頭に命令に従わなかった。
  • 擴廓帖木兒は関保・虎林赤らを派遣し良弼を攻めたが失敗、自ら出陣。李思齊も張良弼と結んで擴廓の使者を拒んだ。
  • 皇太子は擴廓が命令に反して西進していると順帝に讒言し、順帝は擴廓に東征を促す詔を下すが、擴廓は関陝平定が先だと応じず、廷議は紛糾した。
  • 順帝は詔を発し、皇太子愛猷識理達臘に中書令樞密使として全軍の統帥を委ね、擴廓帖木兒には潼関以東の江淮鎮定を、李思齊には鳳翔以西からの川蜀進取を、禿魯には張良弼・孔興・脫列伯を率いての襄樊進取を命じた。

擴廓帖木兒の失脚

  • 諸将はこの詔に従わず互いに争い続けた。皇太子は擴廓配下を寝返らせる工作を行い、関保・貊高らが離反した。
  • 皇太子は順帝に奏して擴廓の兵権と太傅左丞相の職を剥奪させたが、擴廓は命に従わず澤州に退いた。李思齊・張良弼らと関保・貊高らに挟撃されて太原・平陽へと後退した。

朱元璋の統一事業

  • 江南では呉国公朱元璋が徐達・常遇春・李善長・劉基らの文武の人材を集め、浙東・江表を平定し、各地で人心を得ていった。
  • 陳友諒は張士誠と結んで元璋に対抗したが、洪都攻めで元璋の来援を受け、鄱陽湖の戦いで大敗し戦死した。その子陳理も降伏し、湖広・江西は平定された。
  • 続いて張士誠を討伐し、平江を陥落させて士誠を捕らえた(士誠は自縊)。方国珍も降伏し病没した。
  • さらに福建・広東・嶺南方面も次々に平定し、南方はほぼ統一された。

明の建国

  • 至正二十八年正月、李善長ら群臣の勧進により朱元璋は皇帝に即位、国号を明、元号を洪武と定めた。南郊で天地を祭り、即位の祝文が読み上げられた。
  • 即位後、列祖を追尊し馬氏を皇后、世子標を皇太子とし、李善長・徐達を左右丞相に任じた。

元の滅亡

  • 明は徐達を征虜大将軍、常遇春を副将軍として北伐軍を発した。山東諸路を次々と攻略し、河南に入り虎牢関で元将脫因帖木兒(擴廓の弟)を破って汴梁を攻略した。
  • 潼関を守る李思齊・張良弼も明軍に敗れ退却。擴廓帖木兒は関保・貊高を捕らえるなど抵抗したが、順帝の詔で復職しても平陽で足止めされたままだった。
  • 明軍は衛輝・彰德・廣平を落とし、通州へ進撃。順帝は宦官趙伯顏不花らの死守の諫言を退け、后妃・皇太子とともに大都を脱出し北へ逃れた(至正二十八年八月)。
  • 淮王帖木兒不花や左丞相慶童ら守備の諸臣は明軍の攻撃に殉じた。大都は陥落し、元は太祖の建国から百六十二年、世祖の中原統一から八十九年で滅亡した。

元朝残党の掃討と西域四汗国の顛末

  • 徐達は入城後に軍紀を厳しく保ち、府庫・図籍を接収。以後、山西・関中を平定し、洪武二年・三年の北伐で元帝は和林・応昌へと逃れた末に死去(明側は順帝と諡す)。
  • 元の嗣君愛猷識理達臘は北へ逃れたが、その子買的里八剌らは捕らえられ、明太祖は崇礼侯に封じて赦した。四川の明玉珍の子・明升も降伏し帰義侯に封じられた。中華は明の統一下に入った。
  • 末尾として、西域の察合台・伊兒・欽察の三汗国の変遷と、それらを併呑して大帝国を築いた帖木兒(ティムール)の興亡が補足される。帖木兒は東方(明)への遠征を企てたが、道半ばで病没し、中原侵攻は実現しなかった。

(詩四首:元朝八十九年の興亡を回顧し、仏教への耽溺・華夷の風俗混乱・朱元璋の統一・後世への教訓を詠う内容)

評語

本回は元末の諸将・群雄を一気に整理し、雲が風に払われるように筆を進めて全書を結んだ。末尾で触れた四汗国と帖木兒の興亡もまた簡潔に述べるにとどめた。南方平定の詳細は『明史演義』に譲るべきものであり、帖木兒の西域統一も元滅亡後数十年を経た出来事で、元・明の時代区分をわきまえれば当然の書き分けである。詳しく書くべきところは詳しく、簡潔にすべきところは簡潔に――著者の深意はそこにある。