元史演義第五十七回 朱元璋濠南に義を起こし、董搏霄河北に軀を捐つ (朱元璋濠南起義  董搏霄河北捐軀)

脱脱の死

  • 雲南に流された脱脱のもとに、哈麻が偽造した「毒酒を賜り自尽させる」との密詔が届いた。哈麻はすでに左丞相に昇進していたが、脱脱が生きている限り安心できず、勅命を偽造したのだった。脱脱は疑うことなく北闕に向かって拝礼し、毒酒を飲み干して落命した。享年四十二。
  • 脱脱は威風堂々としながらも財貨や声色に淡白で賢士を重んじ、終始臣節を守った人物であったが、小人らに惑わされ私怨を晴らそうとして讒言に陥れられ、非業の死を遂げた。至正二十三年、監察御史の張沖らの上奏により官爵は回復され、家産も戻された。至正二十六年には台官が「脱脱を除いたことで軍事・財政・治安・民生のすべてが悪化した」と訴え、追諡を求めたが、実行に移される前に明軍が迫り、うやむやのまま終わった。

河南戦線の混迷

  • 脱脱に代わり統帥となった太不花は軍事の心得がなく、部下は略奪に走るばかりで戦果を上げられず、答失八都魯に交代させられた。
  • 劉福通は韓林児を「小明王」に擁立し、亳州を都に国号を宋、元号を龍鳳と称した。答失八都魯は許州で福通軍に大敗したが、援軍の劉哈剌不花と合流し、汴梁・太康を経て亳州を攻め、韓林児・劉福通は安豊へ逃走した。
  • 劉哈剌不花は召還され、その隙に劉福通は再び勢力を盛り返した。

朱元璋の挙兵

  • 濠州の朱元璋が登場する。元璋は貧窮のうちに皇覚寺の僧となっていたが、郭子興の挙兵を機に還俗して従軍、武勇により郭子興に重用され、養女の馬氏を妻に迎えた(後の明の皇后)。
  • 元璋は徐達・湯和らを率いて定遠を略し、駅牌寨の兵を降し、定遠の李善長を謀士に迎えて滁州を落とした。郭子興を趙均用の困窮から救い出し滁州に迎え、その後和州を守った。
  • 郭子興の死後、跡を継いだ子・天叙のもとで元璋は副元帥に推されるも受けず、韓林児の龍鳳年号を用いて号令した。常遇春を総兵に抜擢し、巣湖の廖永忠・俞通海らの水軍の帰順を得て、蠻子海牙軍を破り牛渚・采石磯を攻略、太平を落として元帥府を置いた。
  • さらに集慶を攻め、元将・福寿の抵抗を排して陥落させ、応天府と改称して呉国公を自称、鎮江・広徳などの周辺も攻略した。

劉福通軍の四方展開と張楨の上奏

  • 劉福通は毛貴・李武・崔徳・関先生・破頭潘・馮長舅・沙劉二・王士誠・白不信・大刀敖・李喜喜らを各方面に派遣し、山東・陝西・晋冀・秦隴に展開させた。毛貴は山東で膠州・莱州・益都などを陥し、済南も危機に陥った。
  • 御史の張楨は上書して元朝衰亡の根本原因を六か条(大臣軽視・綱紀弛緩・安逸放置・言路閉塞・人心離反・刑罰濫用)、征討上の失策を四か条(調度不慎・衆策不採・賞罰不明・将帥不択)に整理し、特に安逸に流れたことと賞罰の不明を痛烈に批判したが、上奏は聞き入れられず、逆に讒言され左遷された。

董搏霄兄弟の戦死

  • 卜蘭奚が山東へ向かい、董搏霄が済南を救援して寇を退けたが、益都への転戦を命じられ、弟の昂霄を代わりに派遣した。搏霄はその後長蘆守備を命じられて北上する途中、毛貴軍に南皮県で急襲され、力戦の末に戦死。奇異な白気が立ち昇ったと伝えられる。同日、益都でも昂霄が戦死した。朝廷は兄・搏霄を魏国公、弟・昂霄を隴西郡侯に追封した。

毛貴の北上と各地の攪乱

  • 毛貴はさらに北上し薊州を落として京師に迫り、朝廷では遷都の議論まで起きたが、劉哈剌不花が柳林で毛貴を撃退し京師は事なきを得た。毛貴は済南に退いた後、趙均用に殺され、趙均用もまた続継祖に殺された。
  • 一方、李武・崔徳は陝西、白不信・李喜喜は秦隴、関先生・破頭潘らは晋冀方面へと転戦し、元朝発祥の地である上都を焼き払うなど各地を荒らし回った。劉福通は汴梁を占領し韓林児を迎え入れた。
  • こうした混乱の中、元に忠義を尽くしてなお失地の大半を回復する人物が現れる。

(対句:八方搶攘無寧日、一将馳駆得勝時)

評語

本回は前半に朱元璋、後半に劉福通の事績を対比的に描く。朱元璋の勢力は劉福通に遠く及ばぬように見えるが、真の英雄が世に出るには先駆けとなる蜂起が必要であり、秦における陳勝・呉広、隋における竇建徳・李密のように、韓林児・劉福通の挙兵は朱氏の先駆けとなるものである。朱元璋の事績を簡略に留めたのは、詳細は『明史演義』に譲るためである。毛貴の山東侵攻の際に張楨の上奏を挿入したのは元末の失政を端的に示すためであり、董搏霄兄弟が同日に戦死した逸話は特に詳しく描いた。取捨には著者の周到な考えがある。