元史演義第四十七回 官方を正し廷臣会議し、顧命に遵い皇姪宗を承く (正官方廷臣會議 遵顧命皇姪承宗)
燕帖木兒の淫楽と衰え
- 燕帖木兒は八不罕・必罕姉妹に加え宗女らも合わせて後房に二三十人の女性を抱え、日夜歓楽にふけった。至順元年から三年にかけてさらに数十人を強引に手に入れては短期間で送り返すなど横暴を極め、体力を消耗していく。
伯顏の台頭
- 一方、文宗の寵臣として燕帖木兒に次ぐのが伯顏である。至順元年に知樞密院事となり、世祖の孫娘伯顏的斤を妻に迎え、金印・虎士を賜るなど厚遇された。至順二年には濬寧王に晋封、三年には太傅・徽政使を兼ねる。
- 燕帖木兒が女色に溺れて国事に疎くなる中、朝政は次第に伯顏が主導するようになり、その権勢は燕帖木兒に劣らぬものとなった。趨勢に敏い官吏は太平王から濬寧王へと媚びる相手を変えていった。
諫言と符讖
- 監察御史陳思謙は、賄賂によって官職が左右される銓法の弊害を上奏し、選官制度の改革(衙門の整理、辟挙の制、内外官の交流など)を提言する。
- 河北道廉訪副使僧家奴も、遠方に赴任した官吏に省親の休暇を認める制度を上奏する。
- いずれも文宗は詔を下すが、伯顏の意向が絡み実効は伴わなかった。
- 司徒香山は陶弘景の予言詩が文宗の生年干支と符合すると称し、瑞祥として史館に記録するよう求めたが、翰林諸臣は司馬光の故事を引いて牽強付会と退け、沙汰止みとなった。
天変地異と文宗の死
- 江浙の大水、江西・湖広・雲南の飢饉、彗星や地震などの凶事が相次ぐが、文宗はひたすら仏事に頼るのみであった。
- やがて文宗自身が原因不明の病に倒れ、譫言の中で「兄上、嫂上、お許しください」と繰り返すようになる。皇后卜答失里の求めに応じて伯顏が枕元に呼ばれ、文宗は「自分の死後は必ず鄜王に位を継がせよ、皇子ではない」と強く遺言し、伯顏や皇后の異論を退けて息を引き取った。在位五年、享年二十九であった。
鄜王の即位
- 燕帖木兒は病身を押して参内し、皇子燕帖古思の即位を主張するが、皇后卜答失里は文宗の遺言どおり鄜王を立てると告げ、燕帖木兒も伯顏との合意を確かめるほかなく退く。
- 十月、諸王が集まり、燕帖木兒・伯顏の奉戴で鄜王が大明殿にて即位、大赦の詔が発せられる(詔文には太祖以来の帝統と、文宗が兄明宗の子に位を譲る遺志を貫いた経緯が述べられている)。
- 皇后卜答失里は皇太后となり、玉冊玉宝を賜る。さらに七歳の幼帝に、弘吉剌氏の少女也忒迷失が皇后として立てられる珍事も起こった。
- (詩:七歳の幼帝が婚礼の詩を詠まれる奇異を詠む)
評語
- 元代は権奸が多いが、燕帖木兒の専横は極まり、なお伯顏が続く。陳思謙らの直言も豺狼のごとき権臣の前では実を結ばなかった。
- 鄜王擁立は伯顏にはさほど関わりないが、燕帖木兒には不都合であり不満を隠さなかった。皇太后が燕帖木兒の求めを退けて遺命を貫いたのは、明宗夫妻の霊験を恐れてのことと察せられる。