元史演義第三十四回 悪貫満ち奸相冥誅に伏し、良言を進め直臣主眷を邀う (滿惡貫奸相伏冥誅 進良言直臣邀主眷)

抄没の恩恵と至治改元

  • 黒驢・失列門・哈克繖らの家産は抄没され、その一部は功臣に分配された。首輔の鉄木迭児は関与を否定していたため咎めを免れ、かえって多くの恩賞にあずかった。
  • 冬、英宗は初めて太廟に親祀する盛儀を行い、「至治」と改元した。

張養浩の諫言と拝住の取り成し

  • 元宵節に禁中で灯火の飾り(鰲山)を張ろうとした英宗に対し、礼部尚書張養浩が奢侈を戒める上奏文を著し、丞相拝住を通じて奏上。英宗は当初不快を示したが、拝住の説得(史官の記録に残ることの重み)を受け入れて中止し、養浩に金織の幣帛を賜って忠直を旌した。
  • 上都行宮の改築についても拝住は農繁期の負担を理由に諫め、英宗はこれも中止した。ただし万寿山の大寺院建立と大仏鋳造は強行された。

観音保らの処刑

  • 監察御史観音保・鎖咬児哈的迷失らは、飢饉の中での土木・仏事に反対する上奏を行ったが、鉄木迭児の子鎖南の讒言により不敬罪に問われ、観音保・鎖咬児哈的迷失は処刑、成珪・李謙亨は遼東へ流された。

図帖睦爾の左遷

  • 鉄木迭児は中政使咬住と結び、図帖睦爾(和世梀の弟)が術士と往来し謀反の疑いありとする密奏をさせ、英宗はこれを受けて図帖睦爾を遠く瓊州へ左遷した。

拝住と鉄木迭児の対立

  • 鉄木迭児は張思明を左丞に引き入れ拝住を陥れようとしたが、拝住は私怨を持たず国事に尽くす姿勢を貫き、隙を与えなかった。
  • 鉄木迭児が平章王毅・右丞高昉の処刑を求めた際も、拝住は「かつて右相自身が推挙した人物を今誅殺せよというのは矛盾する」と英宗に指摘し、これを退けさせた。
  • 鉄木迭児は病と称して出仕せず、皇后冊立にも不出仕を続けた。

鉄木迭児の失脚と死

  • 拝住は張思明を杖責のうえ左遷し、さらに劉夔夔・八剌吉思の田産不正事件、術士蔡道泰の姦殺事件を摘発、いずれも鉄木迭児やその一族の関与が明らかとなった(鉄失のみ罪を免れた)。
  • 鉄木迭児は追及を恐れて病に伏し、そのまま死去した。まもなく太皇太后弘吉剌氏も、失列門・亦列失八を失った寂しさを抱えたまま病死し、鉄木迭児の死を聞いて「癡児負我」と嘆いたという。

拝住の右丞相就任と諫言

  • 英宗は拝住を右丞相に任じ、左丞相は空席のまま拝住に全権を委ねた。拝住は張珪を平章政事に復帰させ、王約・韓従益ら旧臣、呉澄らを登用した。
  • 英宗が金字蔵経の写経を命じた際、呉澄・拝住はともに、仏教への過度の依存を諫め、「治天下には仁義道徳あるのみ」と説き、英宗はこれを容れて拝住を魏徴になぞらえて称賛した。
  • 監察御史蓋継元・宋翼の上奏を受け、英宗は鉄木迭児の官爵を剥奪し家産を抄没させた。これにより鉄木迭児の残党は動揺し、以後の謀反事件へとつながっていく。

評語

原文著者は、英宗最大の失徳は観音保らの処刑であるが、その実態は鉄木迭児父子が仕組んだものだと指摘する。世祖以来、阿合馬・盧世栄・桑哥ら奸臣は次々に処刑されてきたのに対し、鉄木迭児は貪淫・残虐がそれ以上でありながら生涯権寵を保ち、死後にようやく官爵剥奪・抄家にとどまったのは仁宗・英宗二代の刑罰の誤りだと論じる。拝住は英明な右相として賢を用い邪を退けたが、朝廷内の奸党を根絶やしにできなかったため、死灰がなお燃え残り、後の反噬(南坡の変)を招いたとし、本回は英宗と拝住の合伝でありながら、褒める中に貶す意を含ませていると結ぶ。