元史演義第三十一回 弾章を上げ佞を劾すも功無く、倹言を信じ儲を立て約に背く (上彈章劾佞無功  信儉言立儲背約)

鉄木迭児の理財策と江西の苛政

  • 太后の敕を受けて相位に就いた鉄木迭児は、しばらくは無難に振る舞っていたが、やがて右丞相に返り咲くと、南方貿易の統制や田糧の実測増税など理財策を上奏し、仁宗はこれを許した。
  • 実際には属吏が各省で田を括り増税を強行し、特に江西の使臣昵匝馬丁は苛烈を極め、信豊県では民家千九百戸を撤去し墓を暴いて田畝に組み入れるなど、民の怨みを買った。

蔡五九の乱

  • 贛州の土豪蔡五九が挙兵し、汀州・寧化県を奪って王を称したが、江浙行省平章張閭の討伐により敗れ、捕えられて処刑された。台臣は乱の原因が括田増税にあるとして各省の「経理」中止を求め、聴許された。

張珪の受難

  • 鉄木迭児は太師に進められたが、中書平章政事張珪がその不適格を諫言。仁宗は母命を憚って従えず、逆に太后の使者失列門により張珪は杖責を受け、辞職に追い込まれた。

楊朶児只・蕭拝住らの弾劾と太后の庇護

  • 上都の富豪張弼が殺人罪に問われた際、鉄木迭児は賄賂を受けて釈放を図ろうとしたが、上都留守賀巴延がこれを拒み奏上。御史中丞楊朶児只・平章政事蕭拝住ら四十余名が連名で鉄木迭児の不法(田畑の横領、贈賄収受、殺人犯釈放工作など)を弾劾する上奏を行った。
  • 仁宗は激怒し逮問を命じたが、鉄木迭児は太后に泣きついて興聖宮に匿われ、結局は右相職を罷免されるにとどまった。楊朶児只は集賢学士に左遷された。

立太子をめぐる策謀

  • 武宗の長子和世梀(周王)が正統な継承者と目されていたが、鉄木迭児は仁宗に対し、宋の太宗の故事などを引いて自子(碩徳八剌)の立太子を勧説。これに失列門(太后の新たな寵臣)も加担し、まず和世梀を雲南に出鎮させた。
  • 和世梀は仁宗の立太子(碩徳八剌)を知って不満を抱き、旧臣らと結んで挙兵の相談を進め、陝西の丞相阿思罕らに協力を求めたが、阿思罕らは表面上同意しつつ密かに朝廷へ通報した。

評語

原文著者は、鉄木迭児の奸悪は中外の知るところであり、四十余名もの弾劾がありながら仁宗がこれを庇い続けたことを批判する。太后への孝を理由にした擁護は「愚孝」とも見えるが、実は仁宗自身が舎姪立子の密奏を鉄木迭児の忠言と信じていた点にこそ問題があり、私心が生じたところに奸臣が付け入ったのだと指摘する。前回は仁宗の善政を、本回はその失徳を記し、瑕が瑜を隠さないことを示すと結ぶ。