元史演義第三十二回 位を争い兵を弄び藩王両つながら敗れ、私を挟み怨に報い善類一空す (爭位弄兵藩王兩敗 挾私報怨善類一空)
周王和世梀の敗走と察合台の援助
- 陝西平章塔察兒は仁宗の密勅を受け、阿思罕・教化を先発させて和世梀の軍を欺き、車中に隠した兵器で不意打ちして両人を殺害した。和世梀は間道から脱出し、塔察兒の追撃も及ばず北へ逃れた。
- 察合台汗也先不花(篤哇の子)が和世梀を迎え入れて庇護し、追ってきた塔察兒の軍を撃破した。和世梀はそのまま数年にわたりその地に滞在し、元朝との間は表面上平穏となった。
魏王阿木哥の変
- 仁宗の庶兄・阿木哥(高麗に出居し魏王に封ぜられていた)が、術士趙子玉の讖言に乗せられ、司馬脱不台らと共に挙兵を企てたが、京師での謀議が露見して失敗、脱不台らは高麗へ逃げ戻った。
鉄木迭児の復権工作
- 二度の内乱を経て、仁宗は鉄木迭児の先見を評価するようになり、太后や旧党の働きかけもあって、鉄木迭児を太子太師として再登用した。
- 御史中丞趙世延をはじめ内外の台官が続々と鉄木迭児の旧悪を弾劾する上奏を行ったが、仁宗はこれらを退け、次第に政務への意欲を失い、仏経(維摩経)に慰めを求めるようになった。
仁宗の内禅の意(未遂)
- 仁宗は太子への譲位(太上皇となること)を漏らしたが、右司郎中月魯帖木児が唐玄宗・宋徽宗の禅譲の顛末を引いて諫めたため思いとどまった。
- その後、大長公主が仏事にかこつけて重囚を釈放していた不正、白雲宗総摂沈明仁による民田強奪などを厳しく処断し、一時的に政治への意欲を取り戻した。
仁宗の崩御
- 延祐七年正月、日食を機に体調を崩した仁宗は、太子碩徳八剌の懸命な祈祷もむなしく崩御。在位十年、享年三十六。史書は仁宗を慈孝・聡明・恭倹な守成の主と評するが、母への従順や兄への不義という弱点も指摘される。
鉄木迭児の報復
- 仁宗死後、太后は鉄木迭児を右丞相に復し、一族の黒驢も重用された。太子は乞失監への減刑要求や失列門による朝官更迭要求を退けるなど、公正な姿勢を示した。
- 鉄木迭児は太子が未だ即位せぬ間に旧怨を晴らそうと、楊朶児只・蕭拝住を太后の名を偽って呼び出し処刑した。処刑の際、両名は天を仰いで無実を訴え、刑場には突風と砂塵が起こったという。
- 楊朶児只の妻劉氏は、鉄木迭児の家奴から側室にと迫られたが、顔を切り髪を切って拒絶し、左丞張思明の諫言により辛くも難を逃れ、貞節を守った。
- 鉄木迭児はさらに李孟に無実の罪を着せて爵位を剥奪し、趙世延にも従弟を使嗾して虚偽の告発をさせ、四川から逮問させた。
評語
原文著者は、仁宗の失徳の多くは鉄木迭児一人の惑わしによるものであり、大奸は忠に似て見分けがたく、中智の主では見抜けないと論じる。仁宗は一度ならず二度までも鉄木迭児を用い、太子太師にまで至らせた責は太后の主導のみに帰せられず、仁宗自身の不明にもあるとする。両藩の変が幸い平定されたからよいものの、さもなくば宮門で流血の惨事となっていたであろうとし、仁宗崩御後に鉄木迭児が首相として恣に忠良を殺戮したことも、英宗の若さや服喪などの事情はあるにせよ、その禍根は仁宗が残したものだと結ぶ。