元史演義兄の位を承け奸邪を誅逐し、儒臣を重んじ科挙を規行す(第三 十回 承兄位誅逐奸邪  重儒臣規行科舉)

尚書省の復活と至大銀鈔の乱発

  • 武宗至大年間、世祖以来の中書省中心の体制に代えて尚書省が復活し、乞台普濟脫(脱虎脱と併記)らが丞相、三宝奴・楽実が平章政事、保八・蒙哥鉄木児らが丞・参知政事に任じられた。
  • 彼らは阿合馬・桑哥の流れを汲む理財派で、実質的な策はなく交鈔(紙幣)を濫発する方向に走った。楽実の建議で「至大銀鈔」十三等を新造し、旧鈔と換算する制度を敷いたが、正貨の裏付けがないため物価はさらに騰貴し、官吏の中間搾取もあって民は困窮した。
  • 武宗は脱虎脱・三宝奴を厚遇し太師・太保に任じ、楽実も丞相・国公に取り立てた。

武宗の後宮と太后の私通

  • 武宗は即位数年にして壮年に至るも正式な皇后を立てていなかった。皇太子の推挙で李孟が召され、真哥皇后が立てられた。ほかに従妹の速哥失里、及び亦乞烈氏(和世梀の母、のちの明宗)、唐兀氏(図帖睦爾の母、のちの文宗)らの妃がいた。
  • 太后弘吉剌氏は興聖宮で暇に飽かせ、かつて夫の順宗死後に親しくしていた鉄木迭児を密かに呼び戻し、宮中に長く匿った。鉄木迭児は雲南行省の任を離れて咎められかけたが、太后の意向で「親故」を理由に赦免された。

武宗の崩御

  • 武宗は中都の造営を強行しようとしたが、至大四年正月、体調不良のまま朝賀を欠き、七日後に玉徳殿で崩じた。在位五年、享年三十一。
  • 宦官李邦寧はかつて武宗に対し、子への継承を勧めて叱責されたことがあった。皇太子愛育黎抜力八達(のちの仁宗)はこうして無事に儲位を保った。

仁宗の即位と粛正

  • 仁宗は即位するとまず尚書省を廃止し、脱虎脱・三宝奴・楽実・保八・王羆らを処刑、蒙哥帖木児は杖刑のうえ海南へ流した。
  • 中都造営を中止し、占用された民田を返還。程鵬飛・董士選ら旧臣十数名を召還して政治に関与させた。
  • 中書右丞相の人事は本来李孟に授けたかったが、太后の意向で鉄木迭児に与えられ、仁宗は逆らえなかった。
  • 大明殿で即位の礼を行い、大赦の詔を発した。翌年「皇慶」と改元。仁宗は寛大な処置を志し、旧悪の党類も過度な追及を控えた。

儒学の振興と科挙の再開

  • 仁宗は孔子廟の釈奠を重んじたが、主祭に宦官李邦寧を充てたところ、儀式中に突風が起こり燭火が消えるという異変があり、邦寧は恐懼した。この一件で仁宗はますます儒臣を敬うようになった。
  • 平章政事李孟は幼少から学に優れ、仁宗の信任篤く、濫費や冗員を整理し、僧道官の廃止や風俗の統制を進言、すべて聞き入れられた。
  • 李孟の建議により科挙の実施が決定され、皇慶年間に試験制度(蒙古色目人・漢人南人で科目・出題を分ける、経義・策論などの内容)が定められ、詔が発せられた。延祐元年に初めて開試、翌年廷試を行い護都沓児・張起岩ら五十六人が及第、以後の常例となった。
  • 斉履謙・呉澄が国子司業に登用され、教育制度(升斎積分法など)を整備。仁宗はまた『貞観政要』『大学衍義』ほかの書を刊行し、宋儒・元儒の学者を孔子廟に配祀するなど、儒学振興に尽くした。

評語

原文著者は、武宗は秕政多かったが孝友の性を保ち私利に走らなかった点で曹丕・蕭繹に勝ると評す。仁宗は権臣を退け老臣を召し儒学を興した点で守成の主にふさわしいとしつつ、科挙による一日限りの試験で人材の優劣を定めることには限界があるとも指摘する。ただし選挙制度の弊害と比較すれば科挙にも一定の意義があったとし、儒を賤しんだ元朝で仁宗が儒を重んじたことを特筆すべきとして本回に詳しく記したと結ぶ。