元史演義第二十九回 奸慝を誅し懐寧位を嗣ぎ、酒色に耽り嬖幸朝に盈つ (誅奸慝懷寧嗣位  耽酒色嬖幸盈朝)

クーデターの成就

アフタイが恐れたのは諸王禿剌であった。禿剌の指揮する衛士に取り押さえられ、抵抗も虚しく捕縛された。安西王アナンダと明里帖木児もあっさり捕らえられ、一同は上都へ護送、伯岳吾后は禁錮された。

事態が収まると、諸王らは愛育黎抜力八達に「早く帝位に就くべき」と勧めたが、彼は「私は罪人を討っただけで帝位を望んではいない。兄の海山こそ正統だ、すでに璽を奉じて北へ迎えの使者を送った」と辞退し、監国としてハラハスンに衛兵を統率させ、李孟を参知政事とした。李孟は綱紀粛正に努めたが反発も多く、「大任を担うには天子御自ら任用されるべき」と固辞し官を辞して去った。

海山の即位(武宗)

海山は和林で諸王の推戴を受けたが、母と弟の意向を確かめるまでと燕都からの報せを待った。母の弘吉剌氏は以前、陰陽家の占いに従い海山・愛育黎抜力八達兄弟の運命を懸念し、海山に自重を促す使者を送っていた。海山は「北方十年の功と年長を以て自分が継ぐべきだ、陰陽家の言に惑わされるのは奸臣の陰謀ではないか」と疑い、康里脱脱を偵察に送った。

母は真意を伝え直し、迎えの使者阿沙不花からも安西の変とテムル監国の経緯を聞いた海山は大いに喜び、上都に入り、諸王大臣の推戴を受けて即位した(武宗)。実父ダルマバラを順宗、母弘吉剌氏を皇太后に追尊。伯岳吾后は東安州へ追放、安西王アナンダ・明里帖木児・アフタイらは処刑された。アナンダと伯岳吾后の密通疑惑も理由に挙げられ、伯岳吾后は自尽を命じられた。

改元して至大とし大赦の詔を発した。功臣には恩賞が下され、ハラハスンは太傅、答剌罕は太保・左丞相、牀兀児・阿沙不花は平章政事となった。アフタイ捕縛の功があった禿剌は越王に封じられたが、ハラハスンは「疎属への破格の封は祖制に反する」と反対、これを恨んだ禿剌は後に讒言してハラハスンを和林行省左丞相へ左遷させることになる。弟の愛育黎抜力八達は皇太子に立てられた(「弟を子とする」異例の措置)。廟の合祀順位についても、順宗を成宗の兄として上位に置く変更が行われた。

武宗の治世――尊儒と放蕩

即位初期、武宗は孔子を太牢で祀り「大成至聖文宣王」の号を加えるなど尊儒の姿勢を示し、『孝経』の蒙古語訳も配布させた。しかし次第に酒色に耽り、連日宴を張って妃嬪と徹夜で遊興し、蹴鞠を好む佞臣を重用するようになった(角力の得意な馬諸沙、笙の名手沙的をいずれも平章政事に取り立てる有様)。楽人や宦官の不正も処罰されず、爵位や恩賞が乱発され朝廷の権威は軽んじられた。

忠臣阿沙不花は武宗の衰えを見て「酒色は両方から樹を伐るようなもの」と諫めたが、武宗は却って共に飲もうと誘い、阿沙不花が拒むと周囲は「直言の臣を得たことを祝うべき」と場を取り繕った。武宗はその場で阿沙不花を右丞相に任じたが、翌日にはもう諫言を忘れ酔いつぶれる日々に戻った。

太子右諭德の蕭𣂏は入朝の際『尚書』酒誥を献じて暗に諫めたが聞き入れられず辞去した。上都留守李璧は西僧の徒党に暴行され監禁される事件が起き、武宗は一時激怒し西僧を投獄させたが、まもなく赦免の勅が下った。また西僧龔柯らが諸王妃を殴打する事件でも、皇帝を軽んじる暴言を吐いた末、逆に「西僧を殴打・罵倒した者を処罰する」という詔が出されかけ、皇太子の諫止でようやく撤回された。

宮中に蔓延する西僧の淫行

武宗代には母后弘吉剌氏が興聖宮を建て西僧を昼夜宮中に招き入れるようになり、妃嬪・公主・大臣の妻女までもが参詣し、西僧との密通が「捨身大布施」なる美名の下で公然と行われるようになった。太后もこれを黙認し、武宗自身は酒色に溺れて実情に気づかず、周囲から西僧礼賛ばかりを聞かされていた。西僧の教瓦班は翰林学士承旨に、南宋の宦官出身の李邦寧も大司徒兼左丞相に取り立てられるなど、佞臣の重用が続いた。

越王禿剌の増長と誅殺

功を誇る越王禿剌は次第に増長し、武宗に対しても「自分がいなければ今頃お前は帝位にない」と暴言を吐くようになった。宴席でも同様の発言を繰り返し、武宗の怒りを買った禿剌はついに帯を投げつける無礼を働いた。武宗は都指揮使馬諸沙らに命じて禿剌を捕らえさせ、謀反の疑いで処刑した。

評語

本回は武宗という人物を、喜怒が激しく明暗定まらぬ姿として活写しており、武宗一代の得失がその筆致に凝縮されている。帝位を得るのは容易だったが、それを守るのは難しかった。即位して間もなく酒色に耽り、佞臣や淫らな僧を寵愛したことで様々な失政が相次いだ。地位に驕らず禄に驕らずという教訓は、臣下のみならず君主にこそ強く求められる。武宗は元来暗愚な君主ではなかったが、その治世は暗愚な君主のそれに似てしまった。為政の難しさを物語る一例である。