元史演義第二十八回 蛮酋擒えられ妖婦並び戮され、藩王入覲し牝后謀を通ず (蠻酋成擒妖婦駢戮 藩王入覲牝后通謀)

陳天祥の弾劾と西南諸蛮の蜂起

御史陳天祥は、劉深がまだ処罰されないことに対し長文の弾劾上奏を行った。八百媳婦は取るに足らぬ辺境の小国であるのに、劉深が身勝手な遠征で各地の叛乱を招き、大敗を喫して十数万の兵と千里の領土を失ったこと、この三十年近くの南征がことごとく徒労に終わっていることを指摘し、恩威を併用した招撫策への転換を説いた。しかし上奏は取り上げられず、緬国は使者の帰国により事態が収まったため征緬も立ち消えとなり、天祥は病を理由に辞去した。

一方、烏撤・烏蒙・東川芒部・武定・威楚・普安など西南諸蛮が次々に蜂起したが、伊遜岱爾の討伐によりほどなく鎮圧された。

宋隆濟・蛇節の乱の終結

宋隆濟は自ら王を称え、寵愛する蛇節にそそのかされて水西土官を殺し正式に妃としたが、劉国傑の大軍来襲の報に浮足立った。蛇節は自ら五千の兵を率いて出陣し、その妖艶な容姿と武勇で元軍を一時圧倒したが、劉国傑の指揮の下、次第に押し返された。

劉国傑は釘を仕込んだ盾を地に捨てて偽走する策を用い、追撃してきた隆濟軍の馬を負傷させて大打撃を与えた。さらに夜襲で隆濟の陣営を急襲し大混乱に陥れ、隆濟と蛇節はかろうじて脱出したが、川を渡れなかった蛇節は捕らえられた。国傑は蛇節を厳しく問い詰め、命乞いする蛇節を「恥知らずめ」と一喝し斬首。隆濟も甥の裏切りで捕らえられ処刑され、雲南・貴州の乱は平定された。劉深も最終的にはハラハスンの再弾劾により処刑され、南征の一件は決着した。

完沢の死と成宗の病、後継争いの萌芽

完沢も汚職の疑いで弾劾されたが成宗に許され、まもなく病没(後任はハラハスン)。復職した陳天祥は成宗の政治怠慢・皇后の内政専断・度重なる天変地異を厳しく批判する上奏を行ったが、握りつぶされ再び辞去した。

大徳九年、病篤い成宗は次后弘吉剌氏所生の子・徳寿を太子に立てたが、数か月で急逝(伯岳吾后による暗殺説あり)。成宗の甥・愛育黎抜力八達(海山の弟)とその母は伯岳吾后に疎まれ懐州へ追いやられた。海山(懐寧王、青海鎮守)はこれに不満を抱いたが遠隔のため静観するしかなかった。

伯岳吾后の陰謀

成宗の病がさらに重くなると、伯岳吾后は安西王アナンダ(世祖の庶孫)と諸王明里帖木児を密かに召し、後継について相談した。明里帖木児は「安西王を立てては」と提案、后が躊躇う様を見せると「皇后が臨朝称制すればよい」と焚き付け、三者は皇后臨朝・安西王摂政という筋書きで合意した。

まもなく成宗が崩御(在位十三年、寿四十二)すると、伯岳吾后は垂簾聴政を宣言しアナンダに輔政させた。太廟合祀の儀で「嗣皇帝」の名をどう記すかを巡り、右丞相アフタイと御史中丞何瑋が激しく対立、何瑋は「不義の死は恐ろしいが、正義のための死を恐れはしない」と一歩も引かなかった。

右丞相ハラハスンは病と称して出仕を拒み、密かに符印を封じて後継工作を進める一方、懐寧王(海山)の使者康里脱脱を通じて事態を伝え、懐州の愛育黎抜力八達を燕京へ呼び寄せた。愛育黎抜力八達は師の李孟の勧めで母とともに上京、途中でハラハスンの真意を確かめるため、監視の目をかいくぐり李孟が診脈を装って密談し、入京を促す返答を得た。占いでも吉と出て(李孟が占者に予め言い含めていた)、愛育黎抜力八達は燕京に入り成宗の喪に服した。

政変前夜

伯岳吾后・アナンダ・アフタイは、愛育黎抜力八達の誕生日を口実に彼をおびき出し暗殺する計画を立て、ハラハスンにも同行を求める使者を送った。ハラハスンは表向き応じつつ密かに愛育黎抜力八達へ知らせ、秘策を授けた。愛育黎抜力八達は都万戸嚢加特を通じ、剛力で知られる諸王禿剌を味方に引き入れ、二日前から衛士を邸内に潜ませて待ち構えた。

当日、安西王とアフタイは疑いつつも「自分がいるから大丈夫」と邸内に入ったが、愛育黎抜力八達が突然立ち上がり衛士を呼ぶと、たちまち武装した衛士がなだれ込んだ。アフタイが虚勢を張って怒鳴った直後、思わぬ人物の姿を見て「まずい、安西王、逃げろ」と叫んだ――。

評語

宋隆濟・蛇節はいずれも小さな蛮酋・蛮婦に過ぎなかったが、過酷な徴発への反発から反乱に至り、恨みが積もれば禍を生み、戦端を開けば災いを招くことを示す好例である。劉国傑がいなければ雲南・貴州は失われていただろう。蛇節ゆえに隆濟が叛き、隆濟ゆえに劉深が誅されたという因果は、婦人の害の恐ろしさを物語る。後半で描かれる伯岳吾后の垂簾称制の企ても同様に、祖法を蔑ろにし異謀を蓄えた末の大禍であり、天下に女人あることは避けられぬが、女人に権を授けてはならぬという教訓が込められている。禍の種は結局のところ人が自ら蒔くものである。