元史演義第二十六回 皇孫北に返り霊璽祥を呈し、母后西巡し台臣奏を匿す (皇孫北返靈璽呈祥 母后西巡台臣匿奏)
驕兵の計の真意とハイドゥ撃破
バヤンは諸将に真意を明かした。「ハイドゥは孤軍で深く侵入している。一度でも勝てば逃げ去るだろう。だから敢えて誘い込み、一気に仕留めるつもりだった」。しかし諸将が速戦を望むため、バヤンは「もし逃げられても構わぬなら」と念を押した上で出撃を許した。
ハイドゥは連戦連勝に油断し酒宴の最中だったが、バヤン軍が猛然と営に突入すると、老練な彼はすぐに誘敵と気づき、損害は受けつつも無事に退却した。バヤン軍は追撃したが取り逃がし、軍を収めた。バヤンは諸将を責めず、「今後は主帥の命に従うように、自分が主帥となる時はなおさら慎むように」と諭し、諸将は感謝した。
バヤンの死と成宗の即位
バヤンは皇孫テムルを迎え酒を酌み交わし、「酒はほどほどに、女色にはことに注意を」と諭した後、印綬を玉昔帖木児に渡して大同へ去った。
至元三十年、安南からの朝貢使が拘留され南征が再議された(かつて梁曾の使節が受けた冷遇と、安南王の入朝拒否が原因)。折しも彗星が現れ、世祖は不忽木に天変への対処を問い、不忽木は漢文帝の故事を引いて「天子も自省すべし」と説いた。世祖は深く心を動かされ、その冬に大赦・賑済を行った。
翌年、世祖は病に伏し、伯顔・不忽木らが顧命を受けたのち崩御した(在位三十五年、寿八十)。伯顔は百官を統率し、内乱を厳しく戒めつつも過度な処罰は控え、宮中は静穏を保った。
皇孫テムルは和林から帰る途中、伝国璽なるものを奉じられた。これは木華黎の曾孫の未亡人が売りに出した玉璽を、中丞崔彧が入手し秦の伝国璽と鑑定させたものだが、実際には真偽不明の代物であった。それでも「天が皇太孫に賜った印」ともてはやされ、テムルはこれを受けて上都に入り、太傅玉昔帖木児や伯顔の後押しもあって諸王の同意を得て即位した(成宗)。大赦の詔を発し、世祖に「聖德神功文武皇帝」の尊諡と廟号「世祖」を追贈、実父の裕宗真金と生母弘吉剌氏の尊号も定めた。
成宗の治世初期
即位後、瑞祥として献上された嘉禾を不忽木は「民に益がない」と一蹴。また西僧が罪人の赦免を仲介する慣行(「禿魯麻」)が横行し、極悪人でも西僧に取り入れば赦されるという有様を、不忽木は「善悪を正すのが政治の根本」と厳しく批判した。成宗は完沢を通じて不忽木の言をやや疎んじたが、太后弘吉剌氏の擁護もあり不忽木は留任した。
同年末、大星が西北に落ち、まもなく太傅知枢密院事の伯顔が病没(享年五十九、太師・忠武を追贈)。宋討伐の総大将として二十万の軍を率いながら濫殺を戒めた名将であった。
五台山の仏事と李元礼の直諫
翌年(元貞元年)は平穏に過ぎたが、江西の劉六十の乱を江淮行省左丞董士選が功を誇らず鎮圧した話などが記される。大徳年間には五台山の仏寺が完成、造営には万余の民夫が犠牲になった。世祖以来の仏教偏重(帝師制度、パスパへの過剰な尊称など)が背景にあり、成宗の母弘吉剌太后がこの寺に参詣しようとした際、監察御史李元礼は農繁期の負担・道中の危険・浪費など五つの不可を挙げて諫めたが、中丞崔彧は上奏を握りつぶした。太后の西巡は盛大に行われ、河東廉訪使王忱だけが工事の被害を直言、太后も心を動かし国庫から工役家族への撫恤を命じた。
太后帰還後、侍御史万僧が李元礼の上奏を持ち出し「崔彧が漢人に肩入れし、李元礼が仏を誹謗した」と讒言、成宗は一時怒ったが、完沢・不忽木の意見を聞き、結局元礼を復職させ万僧を罷免した。
評語
真金太子の早世により世祖は皇孫への継承を余儀なくされ、崩御後三月も皇帝不在という危うい状況を伯顔がかろうじて支えた。しかし玉璽の真偽を利用し武力で帝位を決するという手法は後世の模範とはなり得ず、後の帝位継承の混乱を予兆させる。成宗もまた仏教への傾倒を改めず、太后の五台山巡幸を李元礼が諫めたことは後世に評価されるべきだが、崔彧がこれを握りつぶしたことは何のためだったか。元の興隆は僧侶に頼らず、その衰亡はむしろ僧侶に起因する。上が惑い下が覆い隠す政では国は立ち行かない。