元史演義第二十五回 黜陟を明らかにし権姦法に伏し、戦守を慎み老将驕兵す (明黜陟權姦伏法 慎戰守老將驕兵)
北辺の戦況とハイドゥの動き
乃顔の残党は火魯火孫・哈丹らを頭目に西北で出没を続けていたが、皇孫テムル(鉄木耳)の北巡に際し都指揮使トトカらがこれを撃破し、遼左を回復して東路万戸府を設置した。ハイドゥはなお和林を頻繁に侵していたため、世祖はもう一人の皇孫カマラ(甘麻剌)に出征を命じ、宣慰使ケベらと合流させた。ところがケベは表向きカマラを迎えつつ内心ハイドゥと通じており、航愛山でカマラを裏切って包囲した。カマラは窮地に陥ったが、トトカが軍を率いて突入し救出、自ら殿を務めて追撃してきた敵を山中の伏兵で挟撃し、辛くも敵を退けた。
世祖は自ら親征に赴き、北方でトトカを労い、太祖以来の労苦を語って激励した。ハイドゥは世祖親征の報を聞き、戦わずして退いた。
謝枋得の殉節
世祖の帰途、福建から宋の遺臣謝枋得が燕京へ送られてきた。枋得は剛直な気節で知られ、宋滅亡後は建陽に隠れ卜占で生計を立てていた。至元二十三年、御史程文海が江南の人材を訪ね趙孟頫らとともに枋得も名を連ねたが、枋得は母の喪を理由に固辞。元に降った旧宋の状元・留夢炎が推薦しても、枋得は江南士人の無節操を痛烈に批判する書を送り返した。
福建参知政事の魏天祐は枋得を占いにかこつけて城内へ誘い出し、北行を勧めたが枋得は応じず、互いに激しい言葉を交わした末、天祐は力ずくで枋得を北へ送った。旅立ちに友人らが贈った詩の中でも張子恵の一句「此去好憑三寸舌、再来不値半文銭」に枋得は感じ入り、以後は輿の中で横たわったまま二十余日絶食した。燕京に着くと、まず宋の太后・瀛国公の所在を訪ね拝礼して慟哭し、寓居に戻ると再び断食、留夢炎が薬を勧めても拒み、五日後に息を引き取った。世祖はその節義を惜しみ、遺骸を信州へ帰葬させた。
隠遁の大儒たち
保定容城の処士・劉因は宋に仕えなかったが元にも出仕を望まず道学を究め、諸葛亮の「静以修身」の語を愛して居を「静修」と名付けた。推薦により一時右賛善大夫となったが、継母の養育を理由にすぐ辞し、俸禄も返上した。のちに集賢学士に召されても病を理由に辞退、世祖は彼を「不召之臣」と称して帰らせた。至元三十年に没し、翰林学士・容城郡公を追贈され諡は文靖。
奉元の楊恭懿も許衡とともに召されながら固辞を重ねた人物で、太子真金の招きで一時入朝し科挙制度・暦法の整備に関わったのち帰郷、劉因と同年に没した。
一方、国子監祭酒の許衡は元の官禄を長く受け、七十三歳で懐孟に没した。「虚名に累され官を辞せなかった。死後は諡も碑も立てず、ただ墓に姓名だけ記せ」と子に語ったという。没後、世祖は司徒・魏国公を追贈し諡は文正とした。儒者身分が卑しめられた元朝にあって、許衡の存在が儒教の命脈を保ったとされる。
地震と桑哥の失脚
北方から帰還した世祖は龍虎台で地震を感じ、武平路では大地が数十里も陥没し官署民居に甚大な被害が出た。左丞アルグンサリが集賢・翰林両院の官に原因を問うたが、誰もが権臣桑哥の悪政を恐れて口を噤む中、集賢直学士の趙孟頫だけは、桑哥の苛烈な税の取り立てで民が疲弊し尽くしている実情を訴え、未納分の蠲免の詔を求めた。桑哥がこれに難色を示すと、孟頫は「未納が続けば将来の民変の責めは宰輔に帰す」と説き伏せ、詔を発布させた。
世祖が孟頫に留夢炎と葉李の優劣を問うと、孟頫は夢炎を評価する答えをしたが、世祖は「夢炎は賈似道の悪政に迎合し何も諌めなかった、布衣の葉李の方がはるかに勝る」と一蹴した。孟頫は面目を失い退出し、侍御の徹里に「桑哥の誤国は賈似道以上だ、あなたこそ皇帝に近く直言できる立場だ」と説いた。
徹里の直諫と桑哥誅殺
ある日、世祖の狩りに従った徹里が桑哥の罪を激しく訴えると、世祖は激怒し衛士に殴打させ、血を流して倒れるまで打たせた。それでも徹里は「桑哥に私怨はない、国のために諫めた、明日殺されても悔いはない」と屈しなかった。世祖は感動し不忽木に真偽を問うと、不忽木も桑哥の罪状を数え上げた。廷臣が次々に弾劾し、桑哥はついに罪を認めた。世祖は桑哥を罷免し徹里に家産を没収させると、内蔵に匹敵する財宝が出てきた。世祖は台臣が長年黙認していたことを咎め、阿魯渾撒里ら桑哥の与党も次々処罰された。桑哥に阿った葉李も罷免となった。
世祖は不忽木を宰相にと望んだが、不忽木は辞退し、賄賂の記録に名がなく先見の明もあった太子詹事の完沢を推挙、完沢が尚書右丞相、不忽木が平章政事となり朝廷は一新した。
崔彧の弾劾により桑哥一党の徹底粛清が行われ、桑哥の妻の兄で不法を働いていた要束木は処刑、桑哥自身も市中引き回しの上斬首された。納速剌丁・忻都・王巨済ら桑哥の与党も、不忽木の強い主張により処罰された。
海都の乱、再燃
朝廷が桑哥の残党処理に忙殺される間、江南各地で盗賊が相次いで蜂起し、加えて会通河・通恵渠の大工事もあって、世祖は北方の軍務を皇孫カマラと左丞相バヤン(伯顔)に委ねた。
バヤンは和林に鎮し威望厚く、諸王明里鉄木児がハイドゥに唆されて攻めてきた際、阿撤忽突嶺で自ら陣頭に立ち敵陣を突破、明里鉄木児を敗走させた。
必失禿嶺では、夕暮れに鳥が林に入らぬ様子から伏兵を察知し、諸将の反対を退けて厳重な警戒態勢を取った。夜襲を数度退けた翌朝、追撃を命じると案の定、別動隊のスゲテミトルらの挟撃も加わり敵を大破、数百の首級を得た。捕らえた間諜は殺さずに酒食を与えて解放し、後日、明里鉄木児は降伏を申し出た。諸将はここでバヤンの深謀を悟った。
バヤンの召還と驕兵の計
ハイドゥが大挙して来襲すると、バヤンは各要害を固めて戦わなかった。これを朝廷は「怯戦・観望」と誤解し、ハイドゥと通じているとの讒言まで出た。世祖は半信半疑ながら皇孫テムルに北方軍務の全権を授け、太傅玉昔帖木児を副えて派遣し、バヤンを大同へ召還した。
諸将が対決を望むと、バヤンは「私に従うなら」と条件をつけて欽差の到着を止めさせ、自ら出陣した。ところがバヤンは「わざと敗れよ、勝ってはならない」と奇妙な命令を下す。諸将は困惑しつつ従い、七日間で七度戦って七度敗走し、七十里も退いた。焦れた諸将が抗議すると、バヤンは「これは驕兵の計だ」と述べ、続きを語ろうとしたところで――。
評語
謝枋得の忠節は文天祥に劣らぬ模範であり、劉因・楊恭懿らも宋に仕えなかった身でありながら高い志節を貫いた点で許衡・呉澄に恥じさせるものがある。世祖は名目上は儒を重んじたが実際は武を好み、軍費調達のため佞臣を用い、阿合馬・盧世栄に続き桑哥という三奸が相次いで害をなし、いずれも誅されたとはいえ民の疲弊は甚だしかった。バヤンは用兵の巧みさのみならず、あえて戦わぬ慎重さもまた将兵を休ませるためであったのに、讒言により召還されるに至った。これを見れば、劉因・楊恭懿がたびたびの徴召に応じなかったのは慧眼であったと知れる。