元史演義第一十七回 南北より完顔の一族を挟撃し、東西に将を遣り蒙古威を張る (南北夾攻完顏赤族 東西遣將蒙古張威)
汴京陥落後の顛末
- 崔立に后妃らを差し出された速不台は汴京に入城。屠城の請願を窩闊台は一時容れかけたが、耶律楚材の強い諫言で完顏氏一族以外は皆赦免され、百四十万戸の民が救われた。
- 速不台の撤兵後、崔立は自邸に戻るが妻妾・財宝はすでにモンゴル軍に奪われ姿を消しており、大いに嘆く。
金主・蔡州へ逃れる
- 帰徳では総帥什嘉紐勒緷と富察固納が対立し、固納が紐勒緷を殺して金主を幽閉する。金主は宋珪らと謀って固納を誅殺。
- 金主は歸德から蔡州へ移る。途中、亳州の父老に「祖宗の功徳を忘れるな」と諭すが、実情は君臣ともに為す術がない有様であった。
- 蔡州では完顏仲徳が軍備を整えようとするが、近侍らは家庭の安逸を優先し協力せず、金主自身も遊興を続けて挽回の機を逸する。
蔡州包囲戦
- モンゴルは宋と結んで金を挟撃する策を進め、宋の史嵩之がこれに応じる。金主は宋に「唇亡歯寒」の理を説いて糧食支援を求めるが拒絶される。
- モンゴル軍と宋軍が南北から蔡州を分担して攻める。城内は完顏仲徳らが奮戦するが、糧食・救援ともに尽き、西城が陥落。金主は「祖宗の業を絶やす」ことを嘆きつつ、囚われの恥辱だけは避けたいと侍臣に語る。
- 端平元年(窩闊台在位六年)、金主は東西元帥・完顏承麟に譲位。承麟は固辞するが百官の勧めでやむなく即位する。
金の滅亡
- 即位翌日、南城から火が上がり宋軍・モンゴル軍が同時に突入。金主守緒は自ら首をくくって果て、完顏仲徳は入水して殉じ、多くの臣が後を追った。
- 承麟は先帝を「哀宗」と諡するが、まもなく子城も陥落し、承麟自身も乱軍の中で行方知れずのまま落命。金は阿骨打の建国から九代・百二十年で滅亡した。
- モンゴルと宋は守緒の遺骨と財宝を折半し、陳・蔡以北をモンゴル領、以南を宋領とする境界を定めてそれぞれ引き揚げる。
崔立の最期
- 半年後、宋が汴京を攻めたことに窩闊台は激怒し、宋討伐を決意。ザラフ(紮拉呼)を将として派遣する。
- 宋の趙範・趙葵は三京奪還を図り趙葵配下の全子才らが汴京を占領するが、汴京都尉・李伯淵がかねて恨みのあった崔立を謀殺し、屍を晒して民衆に断罪させる。
- 宋軍はさらに洛陽へ進むが糧秣が続かず、モンゴル軍の反撃と決河による水攻めで大敗し撤退。両国の和議は完全に破れ、以後河淮一帯は戦乱が絶えなくなる。
高麗遠征
- 窩闊台は皇子らに命じて四川・漢陽・江淮へ侵攻させる一方、高麗が使者を殺害した事件を受け撤里塔を派遣し東征させる。
- 高麗はかつてモンゴルに服属していたが国王・暾が使者を殺して抗戦。しかし各地で敗れ、江華島へ逃れて謝罪し、子を人質に出して降伏する。
西域・札蘭丁の最期
- 西域では逃亡していた札蘭丁が勢力を立て直し、諸部を攻めて略奪や妃の奪取を繰り返すが、周辺国の連合軍に敗れる。
- モンゴルの綽馬兒罕が三万の軍を率いて追討。油断していた札蘭丁は不意を突かれて敗走し、山中に逃げ込んだ末に土民に捕らえられ殺される。勇猛だが酒色に溺れ部下に厳しすぎたことが敗因とされる。
- 綽馬兒罕は西域を平定し、窩闊台の命で寛大な統治を敷く。裏海・黒海一帯は平定されたが、欽察以北はなお未服属であった。
欽察遠征・八赤蠻追跡
- 窩闊台は拔都(バト)を統帥、速不台を先鋒として十五万の軍を興し、欽察遠征を開始。拔都は術赤の次子で、兄鄂爾達に推されて嗣子となった。
- 速不台は不里阿里城を平定し、欽察の八赤蠻を追う。八赤蠻は巧みに逃れ続けるが、モンゴル軍は執念で追跡を続ける。
- 寛甸吉思海まで追い詰めたところ、暴風で海面が浅くなる異変が起き、モンゴル軍はこれを天佑として徒渉で追撃を続ける。
評語
南宋がモンゴルと結んで金を滅ぼした経緯は、かつて北宋が金と結んで遼を滅ぼした故事と重なり、史家もすでに定評を下しているため詳述しない。本書は『元史』を主眼とするため宋の事跡は簡略にとどめ、宋軍の汴京進出も崔立誅殺を語るための材料にすぎない。高麗遠征や札蘭丁討滅も数年にまたがる出来事だが、読みやすさを優先してまとめて記した。年代に多少の異同があっても瑕疵とすべきではない。