元史演義第一十五回 西夏を滅ぼし庸主宗を覆し、大喪に遭い新君統を嗣ぐ (滅西夏庸主覆宗  遭大喪新君嗣統)

也遂皇后の従軍願い

  • 速不台が班師し、哲別の死を成吉思汗に報告。成吉思汗は哲別の子に千戸を継がせ、朮赤には欽察以東の平定を命じるが、朮赤は病を口実に応じない。
  • 西夏がかつて西征への出兵要請に応じず、汪罕の残党を匿ったため、成吉思汗は西夏親征を決意する。也遂皇后は諫めるが聞き入れられず、逆に自らも従軍を願い出て許される。

木華黎の死と武仙の再叛(挿話)

  • 木華黎はかつて遼河東西・黄河東北の諸郡県を平定し金の版図を大きく削ったが、鳳翔攻めに失敗した後に病没していた。その子孛魯が跡を継ぐ。木華黎の死後、山東で叛乱が再燃し、武仙が都元帥史天倪を謀殺。天倪の弟天澤が孛魯の援軍を得て武仙・彭義斌の連合軍を撃破し、義斌を討ち取るが武仙は逃走する。

落馬の凶兆

  • 成吉思汗は南征の途上、也遂皇后を伴い出陣。狩猟中に猪に驚いた馬から落馬し、体調を崩して寒熱を発する。也遂は南征の一時中止を進言するが、成吉思汗は先に使者を西夏へ送り、質子を送らず汪罕残党を匿った罪を問わせる。

西夏への出兵

  • 西夏では夏主李安全が没し遵頊、次いで子の徳旺が継いでいたが、徳旺は蒙古使者への対応もできず、家臣の阿沙敢缽が居直って「戦うなら賀蘭山へ来い」と暴言を吐く。これを聞いた成吉思汗は激怒し、病をおして自ら賀蘭山へ進軍する。

賀蘭山の攻防

  • 賀蘭山麓で阿沙敢缽の軍と三度衝突。蒙古軍は最初の二度は硬い守りで受け流し、三度目の突撃で一気に反撃して山寨を陥落させ、阿沙敢缽は敗走する。

西夏各地の攻略と馬肩龍の死

  • 成吉思汗は賀蘭山を得た後、黒水などの城を落とし、暑さを避けつつ西涼府や靈州方面を次々に攻略。徳順城では西夏の節度使馬肩龍が三日にわたり奮戦するが、援軍を求めた先で夏主徳旺が病没し新主睍が幼弱で対応できず、援軍は送られない。馬肩龍は孤軍で戦死し、城は陥落する。

夏主睍の降伏と西夏の滅亡

  • 成吉思汗は徳順州を得た後、六盤山で避暑しつつ夏都に迫る。夏の臣民は土窟に隠れるが捜し出され略奪・殺戮に遭う。夏主睍は財宝を献上して降伏を申し出るが、成吉思汗は親出頭を要求。睍は出頭し捕らえられる。将士は夏都を掠奪し、耶律楚材のみは書籍と大黄(薬草)を持ち帰り、後に疫病から兵を救うことになる。夏主睍は改名を命じられた後に処刑され、一族も皆殺しにされる。西夏は元昊の建国以来十代二百一年で滅亡した。

成吉思汗の臨終

  • 成吉思汗は病が篤くなり、也遂皇后に看取られながら群臣を呼び集める。朮赤の死、諸子の状況を語り、窩闊台への嗣位継続と拖雷の監国を遺命する。また金国攻略の策(南宋に借道して唐鄧から大梁を突く)を遺言として残し、息を引き取る。

成吉思汗の生涯と兵制(総括)

  • 成吉思汗は六十六歳で没し、在位二十二年。内外蒙古から中央アジア、コーカサス付近まで広大な版図を築いた。その強さの背景として、(一)騎兵の精強さ、(二)行軍の速さ(馬乳・乾酪での糧食、非常時の馬血利用)、(三)十戸・百戸・千戸・万戸の軍制、(四)出征中も税を課し妻子に家を守らせる制度、が挙げられる。

窩闊台の即位

  • 成吉思汗の死後、窩闊台・察合台・拖雷が集結し、「庫里爾泰会」(蒙古諸王諸将による公会議)を経て窩闊台が大汗に推戴される。窩闊台は耶律楚材を重用し朝儀を整備する。

評語

  • 西夏と金は唇歯の関係にあり、成吉思汗の西夏親征は単に西夏征服にとどまらず、既に金を視野に入れていたことが臨終の遺言からも窺える。もし成吉思汗がもう数年生きていれば金の滅亡はより容易だったであろう。本回は成吉思汗の晩年と終焉を描き、その生涯の要諦を凝縮したものである。