元史演義衆を擁し尊を称し立国し、班師奏凱し男子誕生を祝う(第 二 回 擁眾稱尊創始立國 班師奏凱復慶生男)
孛端察兒の略奪と部族の成立
- 孛端察兒は略奪してきた身重の女性(勃端哈屯)を連れ帰り、これをきっかけに兄弟たちを説いて、頭領のいない集落を襲って財産・女子を奪う計略を提案する。長兄布児古訥特はこれに賛同し、兄弟で手分けして当該集落を襲撃、住民を服属させて財産を接収した。
- 勃端哈屯は孛端察兒との間に二子(札只剌歹・巴阿里歹)をもうけ、孛端察兒はさらに別の妻や女奴隷との間にも子をなす。子孫は代を重ねて増え、五代後の哈不勒に至って各部族から蒙古の部長に推され「哈不勒汗」と称した。
哈不勒汗と金国の対立
- 当時金国は隆盛を極め、宋の徽宗・欽宗を捕らえ高宗を追うほどの勢いだったが、哈不勒汗はこの隙に乗じて北方に勢力を広げた。金主晟は彼を都に招いて厚遇したが、酒宴の席で哈不勒汗は酔って金主の鬚を引くという無礼を働き、金主は寛大に許して帰した。
- 金の廷臣たちは哈不勒汗を危険視し、追撃を試みるが哈不勒汗は逃げ帰り、以後金の使者を要求どおりには従わなかった。ついには帰還した哈不勒汗が金の使者を殺害し、金主は激怒して討伐軍を送るが、蒙古軍の伏兵戦法により金軍は大敗して撤退する。
- その後も両者は一進一退を続け、金の実力者兀朮が和議を結び、西平・河北の地を割譲し歳幣を送ることで、哈不勒汗を「蒙兀国王」に冊封して和睦した(宋の紹興十七年の出来事)。
俺巴該の悲劇と忽都剌哈汗の即位
- 哈不勒汗の死後、従弟の俺巴該が跡を継ぐ。哈不勒汗の妻の兄弟が塔塔児部の巫者の治療の甲斐なく没したことから両部族は交戦し、哈不勒汗の子・合丹の活躍で塔塔児部を破るが、塔塔児部は偽りの和睦を申し出て俺巴該の娘を娶りたいと持ちかけ、俺巴該は娘を連れて赴いた先で父娘ともに捕らえられてしまう。
- 救出に向かった哈不勒汗の長子斡勤巴児哈合も捕らえられ、両者は金国に引き渡される。金は俺巴該を木驢に磔にして処刑し、斡勤巴児哈合も殺害した。俺巴該は死に際、従者布勒格赤に「子姪たちが必ず復仇するだろう」と言い残す。
忽都剌哈汗の治世と也速該の台頭
- 布勒格赤の報告を受け、哈不勒汗の四男忽都剌哈汗が擁立され、金への復讐戦を起こすが決着はつかず、掠奪して引き上げた。忽都剌哈汗は武勇に優れ、甥の也速該を特に見込んで後継として意識するようになる。
- 也速該(哈不勒汗の孫、把児壇の三男)は弓の名手で、ある日斡灘河のほとりで、蔑里吉部の男が連れていた妻(訶額侖)に一目惚れし、仲間とともに男を追い払って女性を奪い取る。忽都剌哈汗の取りなしにより訶額侖は也速該の妻となった。
- 忽都剌哈汗は再び塔塔児部討伐に向かい、也速該を先鋒とする。也速該は敵将帖木真兀格を生け捕り、庫魯不花も討ち取るが、敵の堅壁清野の策に阻まれ決定打を欠いたまま、忽都剌哈汗の病のため撤兵する。帰路、弟から妻訶額侖の男児出産の知らせを受ける場面で本回は終わる。
評語
著者は、孛端察兒以下の一族の行いが略奪を常とする気風だったことを指摘しつつ、哈不勒汗の豪放さが蒙古建国の礎になったと評する。也速該が略奪してきた妻から後に大人物(成吉思汗)が生まれたことについて、朔方の地が王気を宿していたのではないかと述べ、本回の展開が後の成吉思汗登場への伏線を大きく張るものだと結んでいる。