元史卷一百九十六 列傳第八十三 鄭玉

鄭玉(字子美)

  • 鄭玉は字を子美、徽州歙県の人。幼くして敏悟で学を嗜み、成長すると六経に深く思いを致し、とりわけ春秋に深く通じ、仕進の意を絶ち教学に勤めたので門人で受業する者は多く、居所には収まりきらず学者らは相い共にその地に師山書院を構えて彼を迎えた。玉の文章は彫琢を事とせず、京師に流伝すると揭傒斯・欧陽玄はみな称賞した。至正14年(1354年)朝廷は玉に翰林待制・奉議大夫を除し、使者を遣わして御酒と名幣を賜り海を渡って徴したが、玉は病と称して起たず、表を進めて「名爵は祖宗が陛下に遺し天下の賢者と共有させるためのもの、陛下が私に与えるのは私事にすぎません、待制の職は臣にその才がないので受けられません、酒と幣は天下が陛下を奉じるためのもの、陛下が私事として人に与えられるなら、臣は辞するに忍びありません」と述べた。玉は仕えず家に居て日々著書を事とし、著書には周易纂註がある。
  • 17年(1357年)大明の兵が徽州に入ると守将は玉を招致しようとしたが、玉は「私がどうして二姓に仕えようか」と言い、これにより拘囚された。長らくして親戚朋友が食を携えて訪ねると、従容として歓を尽くし、必ず死ぬであろうことを告げた。妻がこれを聞き人を遣わして「あなたが死ぬなら私も地下でお供します」と告げさせると、玉は「もし本当に私に従って死んでくれるなら、私には憾みがない」と伝えさせた。翌日衣冠を整え北を向いて再拝し、自ら首を吊って死んだ。