趙宏毅(字仁卿)
- 趙宏毅は字を仁卿、真定晋州の人。若くして学を好み家は貧しく書がなく巨室に傭われていたが、昼は役を務め夜は書を借りて読んだ。その志を憐れむ者があり総其事だけをさせ役を免じたこともあった。かつて臨川の呉澄に経を受けた。初め翰林書写に辟され、再転して国史院編修官となり、大楽署令に調された。大明の兵が京城に入ると、宏毅は嘆息して「忠臣は二君に仕えず、烈女は二夫に仕えず、これは古語である、私は今力及ばず社稷を救えない、ただ一死をもって国に報いるしかない」と言い、妻の解氏とともに自ら首を吊った。
- その子の恭は中書管勾で、妻子と訣別して「今乗輿は北に奔られた、私と父は禄を食みながら尺寸の力も効すことができない、私の父母はすでに死んだ、どうして死を惜しもうか」と言った。ある者がこれを止めて「我らは官が卑しい、なぜこのように自ら苦しむのか」と言うと、恭は叱して「お前は我が徒ではない、古来忠義の人はそれぞれ自らの心を尽くすもの、どうして職の高卑を問おうか」と言い、公服を着て北を向いて再拝し、やはり首を吊って死んだ。恭の娘の官奴は17歳で恭の死を見て大いに泣いていたが、折しも隣の老婆数人が来て相い率いて避難しようと「私はまだ嫁いでいません、避けてどこへ行くというのですか」と言い聞かず、老婆が力ずくで引こうとすると娘は「人はこの世に生まれれば、たとえ百歳生きても必ず一度は死ぬものです」と言い、密かに中堂に入り衣帯を解いて自ら首を吊った。