建寧・邵武の防衛
- 彭庭堅は字を允誠、温州瑞安の人。至正4年(1344年)進士第に抜擢され、承事郎・同知沂州事を授かった。牛皇神祠を毀し、隣郡の上馬賊を駆逐して民の横急な徴斂を免れさせ、民は大いにこれを便とした。まもなく獄囚の平反を行ったことが上官の意に忤い辞して去った。10年(1350年)詔で守令を選ぶことになり、建寧路崇安県尹として家から起用された。属地の鉛山の寇周良が密かに閩関を犯そうとしたが、庭堅は法をもってこれを禦ぎ寇は境に入らなかった。11年(1351年)建寧路総管府同知に陞り、江西の寇が熾んになると庭堅は民兵を率いて建陽を克復し、まもなく浦城も平定した。12年(1352年)僉都元帥府事を摂し、邵武路総管の呉阿勒坦布哈(ウアルタンブハ)とともに邵武を挟撃し、庭堅は雲梯・火砲を設け昼夜攻撃すると寇は逃げ、渠魁の董元帥・鉄和尚・童昌を追斬し邵武はことごとく平定された。総兵官の江浙参政章嘉がその功を朝廷に上奏し、同知福建道宣慰使司副都元帥に陞り邵武を鎮めた。
- 冬、寇が建寧県を陥した。13年(1353年)庭堅は建陽・崇安・浦城三県の民兵を統率して泰寧に進み、寇は懼れて降を請い建寧県は復し、邵武に還師した。江浙行省は庭堅に建寧・邵武二郡の諸軍を節制させた。14年(1354年)盗が政和・松溪を侵し、江南行台中丞の呉鐸が建寧に軍を督し庭堅に檄を発した。時に鎮撫万戸の岳煥(ガクカン)がその麾下に属していたが、煥は元来悍縦で兵卒を放って暴を為していたので、庭堅は法をもって処断しようとした。煥は懼れその部卒に不意を衝かせ、賊兵に偽装して突入させ交鋒すると衆はみな潰えた。庭堅は独り留まって去らず、ついに害され享年43で没した。旧吏の張椿、儒士の夏志行、江晃が柩を奉じて崇安に還すと、民は父母を喪ったように哀泣し、祠像を立てて歳時に祭祷し、しばしば霊験があった。近隣の邑にも祠が立てられた。南行台監察御史の余観が部を巡察してその賊を捕らえこれを斬り、この事を上奏、中奉大夫・福建道宣慰使都元帥を追贈され忠愍侯に封じられた。