王巴延(字伯敬)と額森都哷
- 王巴延は字を伯敬、濱州霑化の人。湖広省宣使より永州祁陽、湖州烏程県尹、信州推官を歴任した。至正9年(1349年)福寧州知事に遷り3年居て福建塩運副使に陞ることになったが、憲府は時勢が動揺していることを理由に巴延を留め州事を領させた。まもなく賊が邵武から間道を経て福寧に迫ったので、監州の額森都哷(エセンドラ)とともに壮兵5万を募り険阻を分けて扼した。賊が楊梅嶺に至って柵を立てると、巴延は子と共に馳せてこれを破った。賊帥の王善はまもなく衆を擁して州の西門に直迫し、胥吏はみな逃げ散った。巴延の麾下にはただ白挺を持った市の子供数百人しかいなかった。巴延は賊を射て一歩も退かなかったが、賊は長槍で馬を突き馬は倒れ捕らえられた。善は巴延を説いて「公に恵政があると聞く、この州に尹がないわけにはいかない、公が私のために尹となってはくれないか」と言った。巴延は善を叱して「私は天子の命官、不幸にも守りを失った、義として死ぬべきだ、お前に従おうか」と言った。善は怒り左右に命じて跪かせようとしたが屈せず、これを殴らせた。巴延は舌を噛んで血を出し善の顔に噴きかけ「反賊め、殺すなら殺せ、なぜ殴るのか、わが民は天民である、お前が害してはならない、大丞相が親ら叛逆を討伐し百万の師が雷撃電掃すれば、お前らの類は種を残さないだろう、どうしてこのようなことができるのか」と罵った。
- 賊は額森都哷も捕らえた。善が厳しくその抗戦を責めると、額森都哷は口を噤んで答えなかった。巴延はさらに善に唾して「私が賊を殺したのに何が拒闘か、私は死ねば神となってお前を殺すだろう」と言い、言い終えると首を伸ばして刃を受けた。首が断たれると白い液が乳のように涌き出し、屍を数日曝しても色は変わらなかった。州人は哭声が巷に連なった。賊は額森都哷を殺した後、県相を釈放して官にしようとしたが、相は罵って「私とお前は共に天を戴かない、お前を寸刻みにできないのが恨めしい、私がお前の官を受けるとでも思うのか」と言い、賊はこれを殺した。相の妻潘氏は2人の娘を連れて賊に捕らえられたが、やはり賊を罵り母子ともに死んだ。巴延の死後、賊はしばしば巴延が兵を率いて出入りする姿を見た。翌年、州に僧の林徳誠という者があり兵を起こして賊を討とうとし、空に向かって「王州尹よ、王州尹よ、どうか陰兵を率いて我を助け賊を斬ってください」と呼びかけた。折しも賊が神を祀っていたところ紅衣の軍が来るのを見て偽帥の康将軍と思い迎えに急いだが誰もおらず、四面はみな青衣の官軍で、賊は大敗しその酋の江二蛮を斬り福寧はついに平定された。事が聞こえ嘉議大夫・済南路総管・上軽車都尉を追贈、太原郡侯に追封された。