元史卷一百九十五 列傳第八十二 博囉特穆爾

穀城・光化での攻防

  • 博囉特穆爾は字を国賓、高昌の人。宿衛より補官し累転して江東廉訪副使となり、選ばれて襄陽路達嚕噶齊となった。至正11年(1351年)盗が汝潁に起こり、均州鄖県の人田端子らもまた衆を集め官吏を殺したので、博囉特穆爾は民兵を率いてこれを捕斬した。まもなく行省・廉訪司は共に博囉特穆爾に檄を発し、率いる兵を均房に会させ諸軍とともに賊を討たせた。賊はようやく退いたが穀城・光化から急を告げてきたので、すぐに兵を率いて穀城に趨き、樊城主簿の托音都(トインドゥ)らを光化に分遣し、さらに使者を遣わして襄陽に糧を求めたが応じられず、同知の額森布哈(エセンブハ)を遣わしてこれを促したがまた応じられなかった。軍は食に乏しく進めなくなり柴店に駐屯し、再び従子の瑪哈実哩(マハシリ)を遣わして甚だ苦切な言葉で訴えさせたが、廉訪分司の王僉事と本路総管の柴順礼はその責望を怒りこれを械した。折しも努爾章(ヌルジャン)が光化で得た首級を献じに来て「博囉特穆爾は穀城で賊と対峙しているが存亡は未だ知れない、急ぎその糧を済うべきだ、少しでも遅れれば間に合わないだろう」と言った。これにより2人の械は解かれ帰され、額森布哈と万戸の額森特穆爾(エセンテムル)に数千人を率いて博囉特穆爾と会し賊を討たせることが命じられた。

監利での転戦と戦死

  • 翌年正月、襄陽が失守すると額森布哈らはこれを聞き驚き潰走したが、博囉特穆爾は義兵200人を率い戦いながら退き監利県に至り、沔陽府達嚕噶齊の耀珠、同知の沙克善(シャクシャン)、安陸府同知の揚珠布哈(ヤンジュブハ)、荊襄提挙の僧格実哩(サンゲシリ)の軍に遭遇した。時に江に千余艘の船があったので、義兵・丁壮・水夫5千余人を糾合し軍号を授け刀矟を給し、哨馬50を具えて水陸から進んだ。北は石首県に至って中興路もまた陥落したことを聞き、岳州に趨いて元帥の特済(テジ)のもとに就こうと議したが道が阻まれ進めず、なお襄陽に趨くこととした。賊はちょうど楊湖港に駐屯しており、その不意を衝いて撃ち、船27艘を獲得し賊党の劉雅爾(リュウヤル)を生擒しその情を聞き出した。潜江県に進出しさらに賊数百級を斬り30余船を獲得し、賊将の劉万戸・許堂主らを梟した。この日ようやく兵を止め食べないうちに賊が大挙して至り、暮れ方まで賊と対戦した。耀珠らの軍はそれぞれ一面を担当し救援できず、博囉特穆爾は重傷を負い瑪哈実哩に立ち去るよう命じ「私は死をもって国に報いる、お前はここに留まるな」と言った。瑪哈実哈は泣いて「死生は叔父上に従います」と言った。まもなく博囉特穆爾は捕らえられ、賊は共に反逆に加わるよう求めたが、博囉特穆爾は怒って罵り、ついに害された。瑪哈実哈は家奴を率いてその屍を求め、再び賊と戦い共に陣中に没した。一家の死者は26人に及んだ。