元史卷一百九十四 列傳第八十一 顔瑜
顔瑜(字徳潤)
- 顔瑜は字を徳潤、兖州曲阜の人。兖国復聖公(顔回)の57代の孫である。行誼をもって挙げられ鄒県と陽曲県両県の教諭となった。至正18年(1358年)田豊が山東で蜂起し、瑜は家族を連れて鄆城に逃れる途中、賊に刃を突きつけられ「お前は何者か」と脅された。瑜は「私は東魯の書生である」と答えた。賊は瑜を捕らえて「お前は書生だ、我らはお前を殺さない、我らに従って主帥に会えるか」と言った。瑜は「お前ら賊にどんな主帥があるものか」と罵った。賊は怒り瑜を殺そうとしたが、瑜は懼れる色もなく、賊は再び瑜に旗を書かせようとした。瑜は大いに詬り「お前は大元の百姓、天下が乱れてお前は募られて兵となったのに逆に叛逆をなす、私の腕は断てても、どうしてお前のために旗を書き逆に従えようか」と言った。賊は槍で瑜を刺し死に至らしめたが罵りは絶えなかった。妻子もみな殺された。