鄒巴延(字従吉)
- 鄒巴延は字を従吉、高唐の人。建寧崇安県尹となった。崇安の邑は土地を都と区分し55都あり、その田で官に上納する糧は6,000石であった。大家50余家で5,000石を兼ね、細民400余家で合わせて1,000石であったが、有司は常に細民400家に大家50家分の役を配していたため、貧者は10日の労役で家を破ってしまうほどであった。巴延は「貧弱の受苦がこれほどとは」と言い、糧籍を取って分計し、糧1石を有する者は1石分の役を、升斗を有する者は升斗分の役を負わせ、田の多い者は数都分の役を辞退できず、田の少ない者はその所出に応じ免れることを許さなかった。貧困無告の民はようやく休息を得、崇安の賦役の均衡は四方の模範となった。
- 邑には宋の趙抃が鑿った溝があり民田数千畝を灌漑していたが、年久しく溝は埋まり田は荒廃していた。巴延は長溝10里を修復し楓樹陂を巡らせ石を累ねて固め、溝は悉く趙抃の遺跡を復し田は常に稔るようになり民はその利に頼った。
- 安慶路でかつて偽鈔造作者を捕らえたことがあり、卒を遣わしその囚人を崇安に至らせその一党を捕らえようとしたが、囚人と卒は結託して風に乗じて良民の家に入り乱暴を働いた。巴延はこれを捕らえて取り調べその実情を得るとすぐに捕らえて安慶に送り返した。これ以後、偽造の一党が濫りに崇安に及ぶことはなくなった。行省・帥府・御史・憲府はみなその能を挙げ、漳州路判官に選調された。