元史卷一百九十二 列傳第七十九 盧琦

盧琦(字希韓)

  • 盧琦は字を希韓、恵安の人。至正2年(1342年)進士第に登り、12年(1352年)永春県尹に遷った。着任すると飢饉を賑わせ横斂を止め賦役を均し、口塩1百余引を減らし包銀・榷鉄の徴収できない分を免除した。ほどなく訴訟はやみ民は安んじ、学宮を新たにして師儒を招き子弟に学ばせ、月書季考して文風は盛んになった。隣邑の仙遊で盗賊が発生した際、琦がたまたま邑境にいたところ盗賊は遠くから琦を見て迎え拝し「これは永春の大夫だ、大夫のいる百姓はなんと幸せなことか、我らの邑長が暴毒で我らを追い立てたためにここに至ったのだ」と言った。琦は馬を止めて禍福を説くと、衆はみな刃槍を投げ捨てその酋を縛って自新を請うた。琦はこれを許し、酋が至ると械をつけて帥府に送った。以後、威惠は境外にも及んだ。
  • 13年(1353年)泉郡が大飢饉となり死者が相い枕籍し、行ける者はみな老幼を扶携して永春に食を求めた。琦は諸浮屠と大家に命じて食を分け与えさせ、存活した者は数えきれなかった。14年(1354年)安渓の寇数万人が永春を襲おうとし、琦は邑民を召し「汝らが戦えるなら共に戦おう、戦えないなら私だけで死のう」と諭すと、衆は感憤し「使君は何を言うのか、使君は父母のように我らを民として見ているのに、どうして父母を賊に委ねられようか。かつ彼の賊は我らの妻子を虜掠し家屋を焼き払おうとしている、一邑の深仇である。今日の事は進んでも退いてもならぬ、使君はどうかご心配なく」と言い、奮って進んだ。琦は衆を率いて賊を攻め大敗させた。翌日賊は全軍で再び攻めてきたがまた破った。大小30余戦、斬獲1,200余人、邑民に死傷者はなかった。賊は大いに挫け遂に逃げ去った。時に各地で兵乱が相次ぎ列郡はみな騒然としていたが、永春だけは太平の時と変わりなく安泰であった。16年(1356年)寧徳県尹に改まり去った。