元史卷一百九十二 列傳第七十九 温都爾

温都爾(字瑞芝)

  • 温都爾は字を瑞芝、喀喇氏。祖父の阿爾斯蘭(アルスラン)は大将阿珠(アジュ)に従い宋を討ち、冀寧路達嚕噶齊(ダルガチ)に至った。子孫はその名の蘭により蘭を姓とした。温都爾は経史に通じ諸国語も兼修した。成宗の時、翰林院札爾里克齊(ジャルリチ、制誥を書く職)として、藩王に添力聖旨を書くよう命が下った際、温都爾は「この旨は国体を損なうだけでなく民の禍となる」と言い、帝はこれを聞いて近臣に「小吏でここまで言える者は真に得難い」と言い、事はやんだ。まもなく応奉翰林文字を授かり、モンゴル伝記の多くを校正した。侍制に陞り、守令を選ぶ際には遼州達嚕噶齊に任じられ、政績を認められ上尊・名幣を賜り、集賢直学士を除された。
  • 至順元年(1330年)襄陽路達嚕噶齊に遷る。山西で大飢饉、河南行省は流民の流入を恐れ守備を武関に檄したが、温都爾は良民か検分した上でその通過を許した。関吏が「上命に違わないか」と問うと「私は奸を防いでいるだけで良民の敵ではない、なぜ生路を開かずにいられようか」と答え、粥を煮て食べさせ、数万人を救った。また臨漢水沿いに毎年水害があったため城外に堤を築き、無事になった。
  • 元統2年(1334年)益都路総管を除される。俗は悍黠であったが温都爾は学校を興し平易をもって治めた。白昼に人を襲う上馬賊がいて久しく捕らえられなかったが、温都爾はこれを生け捕りにした。その一党は宣慰使の羅卜和(ロブフ)に賂を贈り、温都爾が枉法で賊を放ったと誣告した。まもなく賊は河間で再び劫を働き捕らえられ、その実情を全て白状したため温都爾への誣告は明らかになり、再任を許された。1考(3年)ののち、親王の邁努(マヌ)が益都に鎮していたが、その府属が民を病ませていたのを温都爾は抑制し、民は無事であった。
  • 至正6年(1346年)卒。享年70。子の竒徹濟は同知新喩州事となり、孝で知られた。